運命は、かくのごとく扉をたたく

(やはり、ワシは行かねばならぬ)

プロフェッサー・B氏は何杯目かの紅茶をすすって、深い溜息をついた。 窓辺には小鳥がさえずり、初夏は眩しい。眼下に広がるのは楽聖の屋敷にふさわしく、どこまでも美しい田園風景。 ......にもかかわらず、B氏の心は重かった。 (作曲の仕事が滞っておるし、なにより体力面が不安じゃ。しかし、ほかに頼める者も居らん。がんばれワシ。『21世紀の楽聖』と呼ばれる男よ。まずは、腹ごしらえじゃな) 台所で煮えつつあるカートッフェルズッペ[※1](#c1)の様子を見てこよう、とB氏が立ち上がったそのとき。 トトトトン! 性急な四度のノックとともに勢いよく扉がひらいた! 「助けてください先生!ぼくは何のためにピアノを弾いているんでしょうか?」 見れば十八才の新星ピアニスト・ 鍵一 が、息せき切って床に座り込んでいる。 「どうした愛弟子よ、悲愴な顔をして」 「いいえ先生、ぼくの悩みを聴いてください」 ガックリとうなだれた鍵一は膝こぞうを抱えて、 piangendo [※2](#c2)で話し出した。 「先生もご存じのとおり......ぼくは幼いころ、先生のピアノを聴いて感動して、プロのピアニストを志しました。みんなに応援してもらって、懸命に音楽の勉強をして、ピアニストの登竜門とされるコンクールで優勝して、ついに念願のプロ・デビューを果たしたのです。 それなのに、デビューした途端......自分が何のためにピアノを弾いているのか、何を目標にすればいいのか、わからなくなってしまいました」 「フム、フム。なるほどな。若い音楽家が誰しも当たる壁じゃ」 「ぼくは救いを求めて、図書館であらゆる分野の本を読んだのです」 しゃくりあげながら、鍵一はB氏の書斎の本棚をさびしそうに眺めた。 「文学、哲学、自然科学!どれもみな、おもしろかった......! 異分野の知識は、ぼくに新世界を見せてくれました。

でも、だめなんです。ピアノの前に座ると手が止まってしまう。ピアノの弾けないぼくに価値などありません。この世のどこにも、ぼくの居場所は無いのです。ワーワワ、ワーワ(涙」

「愛弟子よ、そう泣くでない。己の座るべき場所を知りたければ、歴史を学べばよいのじゃ」 愛弟子の肩をやさしく叩きながら、そのときB氏に名案がひらめいた......! (鍵一に託してみるか?この酔狂かつ危険なミッションを......! こやつの賢さ、素直さ、そして前向きな探求心を以てすれば、このミッションを完遂できるやもしれぬ......!) B氏は急いで本棚から一冊の分厚い書物を抜き出すと、鍵一の前にドサリと広げた。 「これを見よ!」 「これは......先生が編纂中の音楽史?」 「そうじゃ。ワシは生涯をかけて、音楽史編纂のミッションに取り組んできた。 古今東西の音楽家に関する文献を蒐集し、世界中の古書店をめぐって楽譜を買い集め、ようやくここまで仕上げたのじゃ。 しかし、どうしても資料が少なく、真相の未だわからぬ『歴史の空白地帯』が幾つかある」 「この音符マーク(♪)をつけてあるところですね......!」 「そうじゃ。かくなる上は、過去の時代へのタイムトラベルをおこない、当時の音楽家たちにインタビューをするほかない。ワシは長い時間をかけて準備を整えた。残る問題はひとつ。『誰が行くか?』」 「!」 B氏は微笑んで、鍵一の顔にすこしずつ光が射すのを見守った。鍵一の頬が赤くなり、耳たぶが赤くなり、そして額全体が真っ赤になった。 「まさか、先生」 「おまえさえ良ければ、ワシのミッションをおまえに引き継ごう。 偉大な音楽家との対話は、おまえにとって良い勉強になるじゃろう。どうじゃ」

鍵一は額に手を当ててよろよろと立ち上がり、天を仰ぎ、八分の六拍子で地団駄を踏むと、飛び上がらんばかりに挙手した。

「やります!やらせてください!」 「それでこそ我が弟子!」 「しかし先生。どうやってタイムトラベルを?」 「この三種の神器を使え」 B氏は allegro con brio [※3](#c3)でそれらを鍵一へ手渡した。 すなわち、

未完の音楽史

鍵盤ハーモニカ 音楽記号の詰まった福袋 の三種である。 「その鍵盤ハーモニカはタイムトラベル機能を備えておってな。楽譜の冒頭を弾けば、それを書いた音楽家の時代へ瞬間移動できる仕組みになっておる」 「21世紀の楽器はここまで進化したのですね......!」 「もしピンチに陥ったら、この福袋から音楽記号を出して使え」 「たくさん入ってますね。リピートに、ダ・カーポに、フェルマータ??」 「ムフフ。おまえも音楽家なら、音楽記号を使いこなしてみよ」

「仰るとおり、ぼくも音楽家の端くれ。お任せください!」

「頼もしいぞ鍵一。ではまず、19世紀初頭のパリへ飛んでくれ。ワシが『歴史の空白地帯』とみなしている重要な時代のひとつじゃ。 パリの社交界で成功をおさめた音楽家といえば、ショパンやリストが有名じゃが、当時のパリには、他にも多くの音楽家たちが居たはずじゃ。 ただ、今では資料が散逸してしまい、彼らの足跡を知ることは困難になっておる。 そこでじゃ鍵一。1830年代のパリへタイムトラベルをおこない、音楽家たちにインタビューをしてほしい」 「パリの社交界、ショパンにリスト......! フランス革命後の動乱期に活躍した才人たちにインタビューできるなんて、ぼくはなんてラッキーなんだろう♪」 鍵一は三種の神器を携えると、師の前にシャキッと向き直った。 「先生。ぼくは必ずや、この音楽史を完成させてみせます!」 「その熱意と勇気、 bravo !さっそく支度じゃ」 「パリに行くなら、お洒落をすべきですね♪」 「よし、ワシの若かりし頃のお洒落着を貸してやろう。さあ、これを着るのじゃ」 「ありがとうございます!」 B氏がクローゼットから取り出した衣装に鍵一は袖を通し、腰紐を締め、帽子を被り...... 「おお、よく似合うぞ鍵一」 鏡を見ると、羽織袴、ブーツにカンカン帽。 昭和の書生風スタイルのできあがり。 「あの、すみませんB先生......お洒落ってこういうこと......でしょうか? パリに行くならもっとこう、洋風の貴族のような服装じゃないと」 「何を言う。民族衣装こそ最高のお洒落じゃ♪」 「な、なるほど......!」 鏡の前で衣装をためつすがめつしている鍵一に、B氏は笑って手袋を渡した。 「さあ、手袋も忘れずにな」 「わっ、美しい刺繍ですね......!」 「パリの社交界に出入りする紳士は、服装や髪型のみならず、手袋でもお洒落を楽しんだのじゃ。かのショパンも、手袋にはこだわりがあったようでな。会えばきっと、話が弾むじゃろう」 「憧れのショパン!では最初に、ショパンの元へ行ってみようと思います」 「ウム、あわよくば弟子入りするとよいぞ。 ショパンは多くの音楽家たちと交流があったはずじゃ。ショパンから人脈を辿ってゆけば、やがては19世紀パリの全貌が見えてくるであろう。健闘を祈る!」

鍵一はしっかりと頷き、鍵盤ハーモニカを構える。胸いっぱいに息を吸い込むと、

♪ ワルツ 第1番「華麗なる大円舞曲」 Op.18 CT207

思いきり鍵盤ハーモニカを吹いた!

たちまち、辺りはまばゆい光に包まれる。突風が窓を突き破る。庭の樹々が嵐のようにざわめく。思わず身をすくめたB氏の耳元を、光の塊が凄まじい勢いですり抜けて行った。   遠くで雷鳴が轟き、風がうなり、 diminuendo [※4](#c4)...... B氏がおそるおそる目を開けると、書斎には誰もいない。 開け放たれた窓に、カーテンがふんわりとひるがえっている。 「がんばれよ、鍵一......!」 B氏は空を仰いで、愛弟子の旅の無事を祈った。

つづく

◆ 注釈

  • カートッフェルズッペ(Kartoffelsuppe)

    じゃがいものクリームスープ。楽聖ベートーヴェン生誕の地、ドイツ・ケルン地方の郷土料理。
  • piangendo(ピアンジェンド)

    悲しげに。
  • allegro con brio(アレグロ・コン・ブリオ)

    輝きをもって速く。
  • diminuendo(ディミヌエンド)

    だんだん弱く。