前回までのあらすじ
18歳の新星ピアニスト・鍵一は『19世紀の音楽史を完成させる』という極秘ミッションを携え、1838年のパリへとワープする。リストのすすめでサロン・デビューを目指すさなか、ウィーンの大音楽家・チェルニー氏から贈られたのは、幻の名曲『夢の浮橋』の一節であった。パリ・サロンデビュー修業の一環として、鍵一は『夢の浮橋 変奏曲』の作曲に挑む決心をする。京都で創作に取り組むため、鍵一は寂しさをこらえて、音楽家たちに別れを告げるのだった。
歌の翼に♪
さても1838年パリの大晦日は賑わしかった……!人々はみな薔薇色の頬をして、新年のプレゼントらしき大きな包みを抱えてゆく。新聞屋の店先にリボンが山と積まれている。あちこちから焼き立てのパイの匂いが流れて来る。仕立屋の前に馬車が列をなしている。パティスリーのワゴンにきらきらひかる砂糖菓子。子供らがキャッキャと笑い騒ぐ。犬がほえる。猫は屋根に丸くなる。花屋は籠いっぱいに色とりどりの花をあふれさせて、オペラ座でもカフェでも、ギャルソンが熱心に窓ガラスを磨いている。……鍵一が目をぱちぱちさせながらポン・ヌフのたもとへ走り出ると、セーヌ川はパリの活気を映して光の川であった。
(普段より船が多い……!ル・アーヴル港ゆきの船[※1](#c1)はどれかしら?) 
人垣の後ろから伸び上がって眺めるほどに、両岸の船着き場にはじつに大小さまざまの船が浮かんでいた。街の喧騒は川風に吹き流されて、対岸に停泊する優美な客船の帆をはためかせている。その船影から小走りに蒸気船が出航すると、外輪の立てる波が川面を白く輝き渡らせて、岸に着けた小さな手漕ぎ船の群をようようと揺らした。と見るや、こちらの船着き場にはいま、大型蒸気船が黒煙を噴き上げて錨を下ろすところ。若い水夫たちが荒縄を抱えて
sfogato
※2に桟橋を走ってゆく。
♪メンデルスゾーン作曲 :6つのリート 第2番 歌の翼に Op.34-2
リスト編曲版

突如けたたましく鐘が鳴り響いて、鍵一は身をのりだした。
「ル・アーヴルゆき、まもなく出航……!」 の呼び声に、人波がどっと動く。猫のフェルマータが「ニャッ」と跳ねたのを鍵一は抱き上げて、「よし、あの帆船だな」トランクを提げて桟橋へ駆け下りた。仰げば空いっぱいに白い帆が張っている。水夫の訝しげな視線を足早にすりぬけて、鍵一はまっすぐに甲板へ上った。青。白。赤。ポン・ヌフから人々が小さな旗を振っている、そのトリコロールが目に染みる。吹き飛びそうになるカンカン帽を押さえて、……ふいに鍵一は、なつかしい感覚にとらわれた。 歓声を上げている人ひとりひとりの表情がくっきりと見える。ほほえむ紳士の口髭の片方がピンと撥ねている。若い女工が口に手をあてて、なにか叫んでいる真珠のような歯並び。連れ合いに耳打ちしている銀髪の老婦人の目の下のホクロ。 (この光景、ずっと前にも見たことがあるような) 鍵一のこめかみが変拍子で脈を打ち始める。ひざこぞうがガクガクと笑い出す。 (そう、コンクール決勝の舞台を弾き終えて客席へ向き直った、あの瞬間だ……!客席の人ひとりひとりの顔がこんなふうにハッキリ見えた。心臓がドキドキして、ひざのふるえが止まらなかった。あのとき、ぼくは……) と、出航の合図の鐘が打ち鳴らされて、はっと鍵一は岸辺を見た。白波を盛り立てて、ゆっくりと船が動いてゆく。ふるえているのは自分のひざではなかった。船全体の振動であった。 (ぼくはただ……) 鍵一は猫のフェルマータをギュッと抱えなおして、モフモフの毛皮が温かい。岸を離れた船はポン・ヌフの下をくぐり、また陽にさらされたかと思えば、すばらしい速さで進み始めた。風に吹きちぎれた波しぶきが痛いほど頬に当たる。19世紀パリがみるみるうちに遠ざかる。 (ただ、ただ、嬉しかったんだ。自分の音楽を、だれかと共有できたことが……) ショパンに出会ったオペラ座が、リストにぶつかッたパリ音楽院の角が、ドラクロワと肝試しに行った芸術橋が、ベルリオーズのかき鳴らすギターの音色が、ヒラーの乗せてくれた馬車が、アルカンのアパルトマンが、ジョルジュ・サンドへ一輪のラベンダーを買い求めた花屋が、洗濯物を抱えてまいにち往復した道が、つい三十分前までクロワッサンが湯気をたてていた『外国人クラブ』のレストランが、なつかしい歌になり、淡い絵になり、やがて朝霧の遠い影になった。 
つづく
◆ おまけ
ル・アーヴル港ゆきの船
ル・アーヴルは英仏海峡を臨む港町です。1836年から、蒸気船によるパリ⇔ル・アーヴルの定期運航が始まりました。sfogato(スフォガート)
音楽用語で『軽快に』の意。- パリの郵便博物館では、19世紀に使用されていた青い郵便ポストを見ることができます。
洗濯物
1838年パリでは上下水道がまだ整っておらず、多くの市民はセーヌ川沿いの公衆洗濯場を利用していました。