前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。様々な困難にぶつかりながらも、鍵一は19世紀の人々の生き様から多くを学ぶ。サロン・デビュー修業の一環として『夢の浮橋 変奏曲』の作曲に取り組む事となった鍵一は、自らの課題と向き合うため、ひとり船旅に出た。ル・アーヴル港ゆきの船※1は、おだやかにセーヌ川を下ってゆく。しかし船内では、意外な出会いが待ち受けていた……!
惑星の庭(Ⅰ)♪

♪ドビュッシー作曲『版画』より「雨の庭」

「どうして牡蠣が」

「まるで職業見本市」 ふたり同時に言い出して、鍵一と『名無しの詩人』は顔を見合わせて笑ってしまった。 帆船の進みが accelerando [※2](#c2)するにつれて、雨は少しずつ小降りになった。今や糸雨が船全体をやわらかく覆って、遠く山間には大量の霧がたちこめている。農村には人影も見えない。冬枯れの麦畑が、どこまでも黒々と広がっている。……鍵一はいま隣に話相手のあることを、あらためて心強く感じた。 「ケンイチ君からどうぞ」 「『名無しの詩人』さんが牡蠣をきっかけに筆を折った、というのは……?」 「牡蠣はバルザック先生の好物なんだよ。ケンイチ君、牡蠣を食ったことあるかい」 「ええ」 「僕は18歳でジヴェルニーの田舎からパリへ出て、生まれて初めて牡蠣を見たんだ。殻のまま山積みになってるのを市場で見て、なんてブキミなかたちのタワシだろうと思ったよ」 「たしかに、焼肉網の焦げなどを取るのによいかもしれませんね」 『名無しの詩人』は鍵一の差し出したパテ・アンクルートへカブりついて、「こりゃうまいや」と目を剥いた。 「ロシェ・ド・カンカル[※3](#c3)……バルザック先生御用達のレストランね、そこより腕が上かも。パテの練りが丁寧。七面鳥、豚、兎、ブラックオリーブ、栗にクルミか。よくぞ個性の強い具材ばっかり集めて、これだけ品良く纏めるねえ。冷めてもしっとりしてるッてことは、パイの焼き上げにムラがないんだね。 高いんじゃないの、これ? もらっていいの?」 「どうぞ、どうぞ。ぼくはパリで半年間、とあるレストランに居候しておりまして」 「噂に聞く、『外国人クラブ』ッてとこ?」 「えッ、ご存じなんですか」 「オペラ座へ出入りする方々の間では有名だよ。でも、一流の芸術家たちは絶対に部外者へ場所を教えないんだ。彼らのああいう結束の固さって、なんだかすごく……羨ましいよ」 うなづいて、鍵一はレストラン『外国人クラブ』の風景をなつかしく思い起こした。夕暮れ時になると、生徒のレッスンを終えたアルカンが音楽雑誌を携えて来る。協奏曲の大作を書き上げたヒラーが、上機嫌にブルゴーニュ・ワインのボトルを持って来る。ベルジョヨーゾ大公妃の音楽サロン[※4](#c4)から抜け出してきたリストが花束をどっさり抱えて来る。ドラクロワがギターごとベルリオーズを担いで来る。シャンパーニュの栓が抜かれ、即興のピアノが鳴り、詩が歌われ、芸術談義に花の咲くところへ、シェフが厨房から湯気立つ大皿料理を運んで来る。洒落のスパイスをふりかけて、親しい食事は夜更けまで続く…… (まるで百年前の出来事みたいだ) 今や遠く離れた『外国人クラブ』の存在を証明できるものは、鍵一と『名無しの詩人』がいちまいずつ食べているパテ・アンクルートしか無かった。 「これはシェフのスペシャリテです。ぼくの旅立ちに際して、餞別にくださったもので」 「不思議な薫りがする」 と、『名無しの詩人』は味わっていた。 「かすかに……なにか珍しいもの」 「シソ(Perilla)です。仕上げの香りづけに少々」 「シソ? あの、川原の土手に生えてる雑草?」 「日本では、生魚にシソの花を添えていただくことが多いんです。パテ・アンクルートにも応用できるかなと思いまして、シェフに話したら採用してくださって。お店で食用に栽培していたんですよ。レストランでお客様に出すときは、シソの花も添えていました。幸い、音楽家のみなさまにも好評で」 「斬新! 日本人ならではのアイディアだね。ラベンダーにちょっと似ていて、でも独特の風味」 「詳しいんですね、お料理……!」 「バルザック先生の『食』の描写[※5](#c5)に魅せられた人間だから、僕は。それに……」 『名無しの詩人』は湿った栗色の髪を掻き上げて笑った。その蒼白い顔に、ちらりと自嘲の影がさした。 「この4年間、カフェやレストランの厨房でも随分働いたからね……パリで食いつなぐために。ほら、なまじ手先が器用なもんだから、五百個のジャガイモを半刻もかけずに剥いたり、ニンジンを薔薇の花のかたちに細工したり、それくらいは朝飯前なんだ。料理を彩りよく盛り付けるのも好き。お客が喜んでくれれば嬉しいし、もっと美しいものを創ってみせたいなアと思う。不本意だけど、そういうとこは庭師の親譲りかな。 生活のために、他にもいろんな仕事をしたよ。乗合馬車の御者、石炭の荷揚げ屋、水売り、ネズミ捕り、郵便配達夫、オペラ座のドアマン……僕はまるで、パリの職業見本市みたいだった」 猫のフェルマータが鍵一の懐からヒョイと顔を出して、聴き耳を立てている。そのあごを『名無しの詩人』はコショコショとくすぐって、 「あッ、そうそう。牡蠣の話ね」 薄墨を流したような空を仰いで、おどけた仕草で肩をすくめた。 「初めてパリの地を踏んだ日、18歳の僕はさっそく出版社の門を叩いた……!」

「出版社の門番は僕を見るなり『靴磨きなら間に合ってるよ』ッて鼻先でドアを閉めようとするんだ。食い下がって、自分が詩人志望で、先日送った原稿の評価が知りたくてジヴェルニーの田舎から遥々パリへ来たという事情を必死に説明して、なんとか応接室に通してもらえた。

編集長という人が出てきた。意外に親切で、言葉づかいも丁寧だった。僕に、自作の詩の暗唱はできるかと尋ねた。出版社には日々何十という原稿が送られてきて、それを数人で手分けして読んでいるから、もしかすると読み落としていたかもしれない、という事で。僕が勇んで暗誦をはじめると、二、三行もゆかないうちに『ああ、それなら読んだよ!』と編集長はひざを打って、いったん編集室に引っ込んだ。まな板の上のナマズ[※6](#c6)というのは、まさにああいう事だね。寿命がちぢんだよ。 ……しばらくして編集長は戻ってきて、ぼくのために熱い珈琲を淹れてくれた。言葉で言い尽くせないほど複雑な薫りの、とびきり上等の珈琲だった。 『語彙が弱い。ロジックが甘い。バルザック作品の劣化版。とてもじゃないが商品にはならない。でも変な書き癖がついていないだけ、今後の伸びしろはあるとみた』 というのが、出版社がぼくに下した評価だった。続けて編集長はこう言ってくれた、 『うちで働きながら、詩作の腕を磨いたらどうだね。あの原稿は預かっておく。いつかきみがデビューを飾るときに、改稿して世に出せばいい』 僕はありがたくその提案を受けた。近所の安宿の屋根裏に寝泊まりしながら、毎日せっせとその出版社で下働きをつとめたんだ」 「どんな詩だったんですか」 と、思わず鍵一は口を挟んだ。 「その、ジヴェルニーから投稿なさった作品というのは」 「『惑星の庭』」 相手はパテ・アンクルートの残りを口へ放り込んで、照れくさそうにそのタイトルを噛んだ。 「宇宙に漂う惑星の一角に美しい庭があり……月の女神が選りすぐりの美しい花だけをその庭に住まわせる……という。田舎育ちの僕にしてはロマンティックな産物」 「すてきです。『詩情(La Poésie)』と『ハーモニー(L'Harmonie)』を感じます」 鍵一はふと、華やかなグランド・オペラの調べとともに、オペラ座の美しいひとときを思い出した。光に満ちた夕暮れに、馬車が次つぎに沓音を響かせて来る。ほっそりとした白い指を紳士の腕に預けて、ふんわりとドレスをなびかせてゆく貴婦人たちは、花の妖精のように儚く輝いていた。 (選ばれし紳士淑女の庭……)

♪ラバール作曲 :マイアベーアの「悪魔のロベール」による二重奏曲のメランジュ

「ところが、3ヵ月ほど経ったころにさ」

「ええ」 「編集長から、倉庫の屑紙をまとめて屑屋に売ってくるよう言われて。屑紙の山を整理していたら、見覚えのある原稿が」 「……!」 「『惑星の庭』だよ。僕が3年掛かりで書き上げた詩集だ」 笑って『名無しの詩人』は、ワインの小瓶を飲んだ。 「編集長に悪気はないんだ。出版社ではよくある事でさ。忙しい編集者のデスクってたいてい散らかっていて、大物の先生の原稿だって、うっかり紛失しかねないんだから。ましてや無名の詩人志望の、日の目を見るかどうかもわからない原稿なんて、ほかの屑紙に紛れてポイと捨てられちゃってもしょうがない。 ……でも、そのときはあたまがまっしろになっちゃって。出版社を飛び出して、気づいたらポン・デザール(『芸術橋』)の上にいた。夏の初めの、風の涼しい午後だった。橋を行き交うパリの人々は、女工も、学生も、辻音楽師も、みんな明るい顔をしてた。僕だけがパリの初夏にふさわしくなかった。 ぼんやりとセーヌ川の流れを見ているうち、死のうかなと思ったよ。あの水をくぐれば、もっと楽しい世界があるのかな……なんて。 でも、いざとなると人間ッて、なかなか死ねないもんだね。欄干に手をかけては脂汗をかき、エイヤと土手から飛ぼうとしてはスッ転び……さて、橋の上を行ったり来たりしているうち、だんだんと日が暮れて。 自分の影がながく伸びて、ふりむけばポン・ヌフ(『新しい橋』)に夕陽が沈むところだった。辺りいちめん茜色に輝いて、空はもう夜の青に覆われて、灯の燈った両岸の建物が、セーヌ川の水面にゆらゆら映って……  喩えようもなく美しい光景だった。そのとき思ったんだ。この景色を美しいと思えるうちは、僕はまだ、文学への夢を諦めちゃいけないんじゃないか……と」

つづく

◆ おまけ

  • ル・アーヴル港ゆきの船

    ル・アーヴルは英仏海峡を臨む港町です。1836年から、蒸気船によるパリ⇔ル・アーヴルの定期運航が始まりました。
  • accelerando(アッチェレランド)

    音楽用語で『だんだん速く』の意。accel.と略記。対義語『だんだん遅く』はritardando(リタルダンド)。rit.またはritard.と略記。
  • 牡蠣で有名なパリのレストラン『ロシェ・ド・カンカル』

    バルザックやアレクサンドル・デュマ、テオフィル・ゴーティエといった、19世紀パリの文人が集う人気レストランでした。バルザックの著した傑作小説群『人間喜劇』にも、何度も登場します。
  • ベルジョヨーゾ大公妃の音楽サロン

    イタリアからの亡命貴族であったベルジョヨーゾ大公妃は熱烈な音楽愛好家で、多くの音楽家を自身のサロンに招きました。
  • 19世紀フランスの文豪バルザック

    バルザックは『食』の描写を通じて、人間や社会の真実を克明に描き出そうとしました。これは当時の文学における画期的な手法であり、現代においても非常に読み応えがあります。
  • まな板の上の……

    もとい、『まな板の上の鯉』。相手に生死を握られ、逃げ場がない状態であること。