前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。様々な困難にぶつかりながらも、鍵一は19世紀の人々の生き様から多くを学ぶ。

サロン・デビュー修業の一環として『夢の浮橋 変奏曲』の作曲に取り組む事となった鍵一は、1838年の大晦日、ひとり船旅に出た。ル・アーヴル港ゆきの船内[※1](#c1)にて、いよいよオリジナル曲の創作が始まる……!

旅する楽器♪

この帆船のどこかにピアノはありませんか。という鍵一の質問に、一等客室付の水夫は釣り竿を担いだまま、

「積み荷になら有るかもしれません」 やや面倒そうに答えて、どうやら非番らしかった。 「ル・アーヴル港で楽器商の取引がありますからね……パリから運んで来た積み荷の一覧に、たしか書いてありましたよ」 「どのピアノ・メーカーですか? エラール? それともプレイエル?」 「さア、そこまでは」 相手は口髭についたトマト・ケチャップをぬぐって、腰にむすんだ魚籠から小さな川魚をペロンと出した。猫のフェルマータがすぐさま「ニャア」と跳んで来る。 「楽器商の方がこの船に乗っていらっしゃるのですか」 「乗客名簿では、そういう人は居ませんね。品物だけパリから送って、ル・アーヴル港で受け取る手筈なんでしょう」 と、フェルマータは見事に獲物をつかまえて、悠々と書斎へ引き揚げて行った。そのしっぽをおもしろそうに見送って、水夫は柱にもたれた。 「ケンイチ様、ピアノが御入用で?」 「いまピアノ曲を作曲しておりまして、できれば手元に鍵盤楽器のあったほうが……でも、商品を勝手に弾くわけにはゆきませんね」 「ピアノがもっと小さくて、猫ぐらいのサイズであれば、持ち運びもしやすいんですがね。こう、小脇に抱えたりして」 と、水夫は冗談めかして楽器を構える格好をしてみせて、それが妙に鍵盤ハーモニカの吹き姿としてサマになっている。鍵一は興味を惹かれて、 「アコーディオンくらいでしょうか。いまヨーロッパで、ピアノに近くて旅に向いている楽器というと」 「もっと小さい物を見た事がありますよ。シンフォニウムというんですかね、イギリスの発明品らしいです」[※2](#c2) 「それはどういう……?」 「ついこのあいだル・アーヴルから乗せたやんごとなきご一家の、お嬢ちゃんの手のひらにちんまりとおさまるくらいの。白蝶貝のボタンが八ツくらい付いていて、空気を吹き込むと音が鳴るんですな。おもちゃみたいな可愛らしい代物なので、作曲の役には立たないと思いますがね」 「19世紀の楽器も進化しているんですね……!」 と、その小さな宝石箱のような、鍵盤ハーモニカのご先祖様ともいうべき楽器を想った。 相手はしかし、この話題にあまり興が乗らなかったとみえて、「それより」と、左のポケットからトランプのカードを取り出した。 「食堂でポーカーでもやりませんか。もうすぐレヴェイヨン[※3](#c3)の樽が開きます。オードブルの牡蠣なんぞ一瞬で無くなりますぜ」 「あとで行きます。ありがとう」 書斎へ戻ると、フェルマータが五線紙の上にのびのびと寝そべって、小魚のしっぽを噛んでいる。椅子に背もたれて、鍵一は天井のシャンデリアを仰いだ。暖炉の火を映してちらきらと揺れるガラスが、ワープ初日に同席した音楽家たちの親しい晩餐の、グラスのきらめきに似ていた。

♪ショパン作曲 :ワルツ 第4番 ヘ長調(通称『猫のワルツ』)

(なつかしいなア。1838年のパリにワープして来た初日に、レストラン『外国人クラブ』で突然ピアノを披露することになって。『猫』がテーマで咄嗟に思い付いたのが『吾輩は猫である』のパロディと、ショパンの『猫のワルツ』だった。※4

しかし、あのときは本当に焦ったなア……! ものすごく弾きづらいんだもの、19世紀のプレイエル社のピアノが。 鍵盤が細くて、浅くて、そっとふれただけでも音が出る。弾き心地が子猫みたいにふわふわでやわらかい。ピッチが全体的に半音の半分くらい低い。鍵盤数が六オクターブ半しかない。鍵盤の重さがそろってない。音量を大きくしようとして強く打鍵しても鳴らない。ロングトーンが伸びない。 構造だって、まるで弦楽器みたいで。パリ滞在二日目にエラールさんが調律……というより『調弦』をしてくれたとき[※5](#c5)、ぼくは初めてあのピアノの内部を見たんだ。とてもピアノの弦とは思えないような……ヴァイオリンかギターの弦みたいに細い弦が、シンプルに張ってあるだけの。あんな華奢な構造だと、モダン・ピアノと同じ弾き方をしていたらすぐピッチが狂ってしまう。 そうだ、レストランに居候を始めてしばらく経っても、ぼくはあのピアノとどう付き合えばよいかわからなかった。ヒラーさんが助け舟を出してくれるまでは……) 思い立って鍵一は、トランクの底からメモの束を引っ張り出した。鍵一がパリ滞在期間中に、日常生活で印象に残ったことや、音楽家とのやりとりを書き留めた備忘録である。 (書き溜めた、というより、書き散らした、という感じなんだよね……うわ、我ながらひどい書きぶり) 時系列も内容もゴチャゴチャのその断片的なメモを、鍵一は一枚ずつめくってヒラー氏の名前を探した。……すると、 『1838年6月 ヒラー氏から聞き書き』 と題したメモを見つけた。鉛筆の走り書きで、
  • 温泉
  • ドイツの春の七草ソース
  • アスパラ
  • オリジナル曲と即興
  • べんろん?
  • 鹿、耳
  • マタイ受難曲(幻の名曲の復活)
  • 風見鶏
  • 白身魚のポトフ
  • 良い子はマネしちゃダメな件、しかしみなさん仲良し
  • あそぶ?
  • パラパラチャーハン

……とある。

(料理のメモ多いな) こうばしいマカロンをサクサクと食みながら、鍵一は半年前の初夏の午後、ドイツの音楽家フェルディナント・ヒラー氏がパリへ戻って来た日の出来事を、あざやかに思い出した。

つづく

◆ おまけ

  • ル・アーヴル港ゆきの船

    ル・アーヴルは英仏海峡を臨む港町です。1836年から、蒸気船によるパリ⇔ル・アーヴルの定期運航が始まりました。
  • イギリスで発明された、19世紀のポータブル鍵盤楽器『シンフォニウム』

    イギリスの物理学者、チャールズ・ホイーストンが1829年に発明した『シンフォニウム』という楽器が、鍵盤ハーモニカのご先祖様だとされています。
  • レヴェイヨン

    フランスの慣習となっている、大晦日の晩餐会。フランスの人々は日が暮れるとすぐ友人同士で集まり、夜更けまで豪華な食事を楽しみます。 クリスマスをレヴェイヨン・ド・ノエル(Réveillon de Noël)、大晦日をレヴェイヨン・ド・サンシルヴェストル(Réveillon de Saint Sylvestre)と呼び分けることもあるようです。
  • 鍵一がパリ到着初日に、ヴィルトゥオーゾの前で演奏を披露することになったエピソード

    第3話『ねこのワルツ♪』をご参照ください。
  • エラール氏がレストランのピアノの調律をしたエピソード

    第7話『檸檬色のエチュード♪』をご参照ください。