前回までのあらすじ
18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。悩み、恥じ、スッ転びながらも、芸術家たちとの交流は大きな収穫となる。

パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』[※1](#c1)を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の復活上演をめざして、ふたりは協力することを誓った。 そうだ、京都ゆこう(Ⅰ)♪

テラスへ出ると、1839年の元旦は夕焼けを迎えていた。

金色の太陽が大きく輝きながら、対岸のイギリスへ沈もうとしている。明るい雲が層をなして、天空へ幾つもの橋を架けるようにたなびいている。凪いだ海は朧げな鏡であった。西の空に架かる珊瑚色の雲は、海に映ると桃色に滲んだ。東にゆけばゆくほど、空は群青色を濃くして、なかに一番星が見えた。これも海は曖昧に映して、星の光はたちまち波間に溶けた。ル・アーヴル港にはレストランの灯りが賑わしかった。潮風に混じる香ばしい煙の匂いを、フェルマータが面白そうに聴いている。 「ケンイチ君」 と、エラール氏は右手を差し出した。 「このル・アーヴルできみに会えて幸いだった。パリに戻ったら、エラール社の工房においで」 「はい……!『夢の浮橋変奏曲』を携えて、きっと春に伺います」 『夢の浮橋』同盟を結んだ心強い手[※2](#c2)を、鍵一はしっかりと握りしめた。 「ひとりで帰れるかね」 「大丈夫です、相棒もいますし」 フェルマータが小さく鳴いて、夕陽色の瞳で鍵一を仰いだ。鍵一が抱き上げるとすぐさま、この猫はフサフサと懐へもぐりこんだ。エラール氏は微笑して、 「では」 と、レストランへ戻って行った。扉が閉まり、鎧戸が下ろされる音を、鍵一は背中で聞いた。 港の夕焼けは今、空と海に巨大な光の橋を架けていた。朱色の雲は空一杯に広がりながら、海に沈む夕陽へとまっすぐに通じていた。海上にはひとすじの金色の光が、これもまっすぐに夕陽へと伸びていた。 (この橋はきっと、今なら21世紀へ通じているんだ) 鍵一は直感した。過去と未来は、この景色の中で地続きなのだった。手早く風呂敷包みをひらき、鍵盤ハーモニカを構える。ふと、この楽器の名称の起源が、ギリシャ神話に登場する『調和』の女神、『ハルモニア[※3](#c3)』であると気づいた。 (ピタゴラスの天球音楽説[※4](#c4)に拠り、魂の平安を得るべく奏されるという、名曲『夢の浮橋』。ぼくの創る『夢の浮橋変奏曲』は、その謎を解く鍵になるはずだ。 いざ、2020年の京都へ……!) 胸いっぱいに息を吸い込むと、鍵一は夕陽の最後の輝きに向かって、思いきり吹いた……!

♪B氏 作曲 : 八ツ橋(ピアノ曲集『B級グルメ -和食編-』より)

緑の風が吹いている。音の実がきらきらと揺れている。大切なことをささやくように。

次第にその音は高く響き、五線譜はうねり、数々の美しいメロディが絡まりながら吹き抜けてゆく。思わず手を伸ばした鍵一の指をすり抜けて、それらは懐かしい過去へ飛び去った……! 鍵一はゆっくりと目をひらく。途端、まぶしさに息を呑んだ。 目の前にそびえ立つ京都駅ビルの壁面に、黄金色の夕焼けが映り込んでいる。京ことばの優雅にさんざめく気配がする。頬をなでてゆく夕風に、出汁と白檀の薫りが入り混じっている。エスカレーターを上って行く紳士淑女を、百貨店の見事な門松が迎えている。その正面入り口の上部に、 『2020 賀正・新春初売りセール』 の横断幕。 ふりむけば京都タワーが白い巨きなろうそくのように灯り、夕空には茜雲が legato [※5](#c5)にたなびいている。バスや車の行き交う大通りはクラクションの音に満ちて、初詣の帰りらしき人々の影が賑わしい。 鍵一は呆然と額に手をかざし、ふるえるひざこぞうをたたき、むずむずと小躍りすると、コブシを天へ突き上げた。 (すごいぞ、ここは2020年の京都駅前だ!B 先生、ぼくは無事に帰ってきましたよ……!) 「ニャア」 と、懐からフェルマータが猫耳を出した。 「フェルマータ、ここが21世紀の京都だよ」 夕陽色の瞳が物慣れたふうに辺りを見回して、 『ここも吾輩の縄張りである。証拠はまだニャい』 と言いたげに煌めいた。次いで手足をウンと伸ばすと、鍵一の懐からするりと抜け出た。アスファルトにひらりと降り立つ猫と、ルイ・ヴィトンのヴィンテージ・トランク[※6](#c6)を提げた羽織袴姿の青年を、道行く人々がちらちらと見る。白い息を吹いて、鍵一は心を落ち着けた。 (よ、よし、まずは、叔父さんに連絡を取らなくちゃ。電話をして、『夢の浮橋変奏曲』が完成するまで居候させてもらえるよう頼んでみよう。日本語を何ヶ月も話していないけれど、うまく話せるかな?19世紀から戻って来たばかりだと悟られないよう、気を付けないと……) 用心深く辺りを窺うと、街灯りが目にしみる。ふと重大なことに気づいた。

(日本円がない!)

いかにも日本円がなかった。公衆電話を利用しようにもバスに乗ろうにも、日本円の持ち合わせがない。さて、山深き貴船[※7](#c7)の叔父のアトリエまで歩いてゆける自信はなかった。 (京都でヒッチハイク……は無謀かしら。駅員の方に電話をお借りできるかな?) 思案していた、そのとき。 フェルマータが猫耳をぴんと立てるや、何事かへ向かって全速力で走り出した……!慌てた鍵一が「フェルマータ!」と呼び掛けるも猫ふりむかず、京都駅構内への階段を presto [※8](#c8)で駆け上がる。 「おうい、フェルマータ!ちょッと止まって[※9](#c9)」 猫速い。猫速い。案内所を突っ切り、外国人観光客のスーツケースをかろやかに飛びこえ、21世紀の京都駅を駆け抜けてゆく。こけつまろびつ追う鍵一が、観光案内所の立看板にすねをぶつけ、抹茶色のタイルですべり、つんのめっては人にぶつかりそうに息せききって走る走る。猫に続いてJR券売機の角を曲がった途端。

♪神山奈々 作曲:沙羅の樹の 花ひらく夜に うぐいすは

音楽に掴まれた。

つづく

◆ おまけ

  • 音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました。

日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪

第1話のみ、無料でお聴きいただけます。