前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
名もなきシェフの肖像(Ⅹ)♪
――回想 シェフの肖像(1838年4月)
「紺色のまっさらなテーブルクロスに、ぱッと白砂糖がこぼれたように見えた。みるみるうちにそいつは長く尾を引いて、夜空を横断しはじめた。アパルトマンの窓が次々開いて、みんなびっくりして彗星を眺めてた。楽隊は星にちなんだ曲をやりはじめた。
♪モーツァルト作曲:フランスの歌 「ああ、お母さん聞いて」による12の変奏曲(きらきら星変奏曲) K.265 K6.300e ハ長調

「俺とカレーム先生※3は乾杯して、テラスであれやこれや話しながら彗星を見物した。『そういえば昔、この光景によく似た版画を見た事がある……図書館の版画室で』と、カレーム先生が言い出した。どんなでした、と俺は興味をもって聞き返した。古代建築の版画は、カレーム先生にとってピエスモンテ※4の着想源なんだ。
『未だピエスモンテの下絵にした事はないが』と先生は笑って言った。 『その画の事はよく覚えている。古代ギリシャの伝統的な円形劇場で、楽隊が演奏している構図だ。コスモスの群れ咲く野外劇場。上空を巨大な彗星が飛んでいる。……ふしぎな魅力を放つ画だった。ピタゴラスの天球音楽説[※5](#c5)に由来する風景だと注釈に書かれていた』 『じゃア、実際に有った出来事かもしれませんね。彗星てのは、数十年、数百年……ものによっちゃア数千年おきに、何度も巡ってくるんでしょう』 カレーム先生は頷いて、上等のスパークリングワインを注いだ。 『その画の注釈によれば……彗星の輝く晩に特別な曲を奏でると、葡萄が豊作になるそうだ。楽隊が演奏すると、彗星は応えて歌い出す。その音が振動となって地上に届き、葡萄が豊かに実るという。古代ギリシャ人らしい発想だ。近いうちに、我々も美味なるワインが楽しめるだろう』 はア、彗星による音響栽培ですか、ふしぎな事もあるもんですねと話していて、ふいに昔の事を思い出した。 『ずっと聞きたかった事があるんです』と言い出してみた。俺たちが大貴族の屋敷の庭で、初めて会った時の事だ。[※6](#c6) 『あのとき、なぜ俺に声を掛けてくれたんです』 『きみがクレソン[※7](#c7)を採ろうとしていたからだ。あの頃ちょうど私も、香草に興味を持ち始めたところだった』 笑いがこみあげてきて、俺はひどく噎せた。怪訝な顔のカレーム先生に、しょうがないから本当の事を言った。『いや、俺はテントウムシをつかまえようとしてたんですよ』とね。これにはカレーム先生も大笑い。ふたりして笑っているうちに、彗星の奴はますます明るくなった。楽隊は『きらきら星』を大げさにアレンジして弾き出した。おもしろい夜だった」 
「それから彗星は半年くらい、ずっと俺たちの頭上にあった。その光が消えかけたころ、ナポレオンがしくじった。戦争に負けたんだ。しばらくごたごたした挙句、この国はまた王様の時代になった。1811年の大彗星はやっぱり政変の前触れだったんだと、俺とカレーム先生は頷き合った。あの大革命※8の時も、じつは同じ彗星が来ていたのかもしれない」
水差しを取り上げて、料理人はガラスのコップに勢いよく注いだ。テーブルクロスに初夏の水の影が映る。旨そうに一口飲むと、「ただ、大革命の時と違ったのは」と話を続けた。 「俺たち料理人は政変のトバッチリを受けずに済んだ。カレーム先生も俺も、ナポレオンが島流しになったからッて牢屋に放り込まれたりはしなかった。先生の言うとおり、人間は少しずつ進歩するもんだと思った。……そう、『彗星年のワイン』はとびきり美味かった」 「彗星の音楽が、葡萄を実らせたのですね」 「ハハハ、どうだかな」 シェフの笑い声を乗せて、初夏の風が吹き抜けた。ふわりとひるがえったカーテンから、ヒョイと猫耳が出た。 「お、『停留所(fermata)』[※9](#c9)のご帰還だ」と、シェフは猫の名前を覚えていた。なでようとした鍵一の手をすりぬけて、猫はピアノの上に丸くなる。店内を見渡すと、 『午時には賑わしくもなるだろう。客人の来ぬうちに身支度を致そう』 と言わんばかりに、前足でヒゲの手入れをはじめた。笑って料理人は金盥に水を満たして、窓辺に置いた。 「カレーム先生とは、それから10年一緒に働いた。ロンドンの宮殿に招かれた事もあった。皇太子が建築に詳しい御方で、カレーム先生と気が合ったんだ。ブライトン[※10](#c10)の離宮では魚料理の研究に明け暮れた。スチュアート卿の頼みでサンクトペテルブルクにも行った。道中でラギピエール先生の墓参りをした[※11](#c11)……カレーム先生に宴会料理のイロハを教えた、偉大な料理人だよ。パリに戻ってからは、ロスチャイルド家の豪華な厨房で目一杯働いた。毎日が愉快で、あッという間に過ぎた。その10年は俺の宝だ。 ……俺が自分の店を持ちたいと言ったとき、カレーム先生は引き留めなかった。開店祝いに鍋やフライパンや調味料、食器、ワイン、それに本をどっさりくれた。料理書、建築書、伝記の類……一生かかっても読みきれないくらいの本をさ」 料理人はルソー[※12](#c12)の『告白』第6巻を掲げてみせた。鍵一はマリー・アントワネットのくだりを思い起こした[※13](#c13)。 「このレストランに大きな本棚があるのは、そのためなんですね」 「店にあるのはほんの一部だ。残りは俺の部屋の戸棚に仕舞ってある。この店を開いてしばらくは全然、客が来なくてさ。こんな路地裏にあるから無理もないけど、暇で暇で。カレーム先生のくれた料理書ばッかり読んでた」 「『外国人クラブ』の、最初のお客様はどんな人だったんですか」 「そうそう、忘れもしない1823年の冬だ。外国人だからッて理由でパリ音楽院に入学拒否された、12歳の……」[※14](#c14) すると涼やかなチャイムと共に、『ピアノの魔術師』の明るい声が飛んで来た。 「ええ匂いや、今日はクロワッサンやな。シェフ、ランチセットをひとつ」♪フランツ・リスト作曲:すべての長・短調の練習のための48の練習曲(24の練習曲) 第1番 S.136 R.1 ハ長調
——回想 シェフの肖像(1838年4月)完
つづく
◆ おまけ
音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました
日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪ 第1話のみ、無料でお聴きいただけます。ピアノ独奏曲『夢の浮橋変奏曲』
鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されます。 ♪『夢の浮橋変奏曲』&音楽劇が聴けるピアノリサイタル(2022年) 京都・パリ 2つの古都のための片山柊ピアノリサイタル ―音楽劇『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』他―19世紀の宮廷料理人、アントナン・カレーム(1784-1833)
フランス出身のシェフ、パティシエ、著述家。著書に"Patissier pittoresque"(『華麗なる菓子職人』)、"Patissier royal parisien"(『パリの宮廷菓子職人』)、"Maître d'hôtel français"(『フランスの給仕長』)、"Art de la cuisine au XIX siècle"(『十九世紀のフランス料理術』)など。ピエスモンテ(大型装飾菓子)
晩餐会やセレモニー等で供される大型の菓子。十九世紀の宮廷料理人、アントナン・カレームが大成したといわれています。天球音楽説
古代ギリシャの哲学者ピタゴラスが提唱した説。「天体(惑星など)はそれぞれ固有の音を発しており、宇宙全体(=天球)が音楽を奏でている」という思想。この思想は後世に受け継がれ、プラトン、プトレマイオス、アウグスティヌス、ケプラーなど、多くの哲学者・天文学者が「天球音楽」を基とした自説を展開しました。『外国人クラブ』のシェフとアントナン・カレームの出会い
第69話『名もなきシェフの肖像(Ⅲ)♪』をご参照ください。クレソン
ヨーロッパ・中央アジア原産の多年草。和名はオランダガラシ。フランス料理では香草としてよく使われます。大革命
18世紀末のフランス市民革命を指します。fermata(フェルマータ)
イタリア語で「停留所」の意。音楽用語では「休符や音を適度な長さに伸ばす」の意。ブライトン
英仏海峡を臨む港町。カレームはイギリス皇太子(のち、ジョージ4世)の離宮で腕を振るいました。ラギピエール
18世紀末~19世紀に活躍した料理人。カレームが師と仰いだ人物。コンデ公(フランス貴族。王家に近しい一族)に仕え、のちに皇帝ナポレオン配下の宮廷料理人になりました。
ロベールやカレームと共に宴会料理を担当し、フランス料理界に大きな足跡を残しましたが、ナポレオンのロシア遠征(1812年)に同行した際、極寒の地で凍死してしまいます。カレームはその死を悼み、著書『パリ風の料理』の冒頭2ページを「ラギピエールの思い出に」と題して、偉大な料理人の功績を称えました。
- フランス出身の思想家、作曲家。童謡『むすんでひらいて』の原曲の作曲者でもあります。
マリー・アントワネットの発言に関するエピソード
第68話『名もなきシェフの肖像(Ⅱ)♪』をご参照ください。『ピアノの魔術師』ことフランツ・リストが、パリ音楽院に入学拒否されたエピソード
ピティナ調査研究ページ「ショパン時代のピアノ教育(上田泰史著)」より「第35回 パリ音楽院とフランツ・リスト」をご参照ください。 SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』(ふるたみゆき)TOP