前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
2つの古都のための謝肉祭♪
「静々に五徳にすえにけり薬食(くすりぐい)」※3
甥より先にイノシシ肉を頬張って、古美術商は美味そうに与謝蕪村を気取った。 「これが牡丹鍋ですか」と鍵一は眺めた。なるほど、イノシシ肉が牡丹の花びらのようにひらひらと煮えている。 
「江戸時代は仏教の決まりで獣肉を食べちゃいけなかったんで※4、ヤマクジラと呼んでイノシシを食ってたんだ。山のクジラだから獣じゃないというわけで」
「でも、鯨は哺乳類だから獣でしょう」 「当時は魚だと思われてた[※5](#c5)」 魚偏に京と書く巨大な姿を思い描いて、牡丹のいちまいを食せば意外に歯応えがあった。 「美味いだろ。冬を越すために、この時期は脂が乗ってるんだ」と叔父は肉ばかり取る。鍵一はどちらかというと、生麩や豆腐のほうが好きだなと思った。猫のフェルマータはどれにも興味がないとみえて、先ほどからストーブの前でうとうとしている。テレビから旅番組のBGMが流れて来て、白味噌仕立ての出汁に溶けた。テレビはモンマルトルの眺望を写していた。白亜のサクレ・クール寺院※6は鍵一の目に新しかった。この美しいバジリカ聖堂※7は、1838年のパリにはまだ存在しなかった。
『モンマルトルの丘[※8](#c8)には、画家の方が大勢住んでいらっしゃいますよね』と鍵一がシェフに尋ねると、相手は可笑しそうに答えたものだった。『まさか。住んでるのはシカかイノシシくらいだ』…… 「そういや、パリの音楽家はさ」と、叔父が水を向けた。 「おまえがピアノや作曲を習ってた音楽家は、ジビエなんか相当食ってたんじゃないか。美食の都だもんな」 「イノシシかどうかは分かりませんが」鍵一は笑って、自分の椀に焼き豆腐を多めによそった。 「フランツ・リストさん……に似た先生が、イタリアでは[※9](#c9)肉料理をたくさん召し上がったそうです。ロッシーニさん……に似た方の夜会では、ステーキにフォアグラをのせたごちそう[※10](#c10)が出たとか」 「なんとまア、19世紀の音楽家に似た先生がたくさんいるもんだな」 叔父は感心してみせて、イノシシ肉を次々と鍋に浮かべた。湯気にたちまち、大輪の牡丹が咲いた。 「パリでは観光もしたのか」 「はい、少しは。フランス語とピアノの勉強で手一杯だったもので、セーヌ川沿いを散歩する程度でしたが」 「ふうん」と頷いて、「ノートルダム大聖堂はどんなだった?」 「すごく綺麗でしたよ」 たちのぼる湯気を仰いで、鍵一は19世紀パリの薫りをなつかしく思い起こした。 「夕暮れは特に綺麗でした。セーヌ川に大聖堂が映って、鐘の音がよく響いて……」 「じゃア、修復はけっこう進んでるのか」 「修復?」 箸が止まった。叔父は何でもない顔つきで続けた。 「去年の4月に大きな火事があったじゃないか」[※11](#c11) 「火事?」 思わず聞き返した声が2オクターブ[※12](#c12)跳ねた。「火事があったんですか?」 おそるおそる尋ねた鍵一に、叔父はにやりと笑った。 「おまえ、なにか隠してるだろ」 
つづく
◆ おまけ
音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました
日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪ 第1話のみ、無料でお聴きいただけます。ピアノ独奏曲『夢の浮橋変奏曲』
鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されます。 ♪『夢の浮橋変奏曲』&音楽劇が聴けるピアノリサイタル(2022年) 京都・パリ 2つの古都のための片山柊ピアノリサイタル ―音楽劇『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』他―「静々に五徳にすえにけり薬食」
江戸時代の俳人・与謝蕪村(1716-1784)が牡丹鍋を詠んだ一句。イノシシは、文字通り「薬」になるほど栄養満点の食材です。仏教と獣肉
仏教では殺生が禁じられているため、江戸時代には肉食は禁忌とされていました。しかし実際には、イノシシ肉を「牡丹」、シカ肉を「紅葉」と言い換えるなどして、肉食が普及していました。バジリカ聖堂
建築様式の一種。モンマルトルのサクレ・クール寺院はこれに当たります。「バシリカ」の名称は、ギリシャ語で「王の列柱廊」を意味する「バシリケ」に由来するといわれています。- フランス・パリで一番標高の高い丘。19世紀半ばまでは葡萄畑の広がる農地でした。丘の上には女子修道院があり、ワインが製造されていたといわれています。
フランツ・リストとイタリアの旅
フランツ・リスト(1811-1886)は1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とともにイタリアに滞在しました。イタリア各地で目にした風景や芸術作品を着想源として、リストは『巡礼の年 第2年「イタリア」』等のピアノ独奏曲を制作しています。ロッシーニ風ステーキ
ロッシーニ(1792-1868)が考案したとされる料理。 名称は「牛フィレ肉のロッシーニ風」、「トゥルヌド・ロッシーニ(仏: Tournedos Rossini)」とも。牛フィレ肉のステーキの上にフォアグラを載せた、とても贅沢なステーキです。美食家のロッシーニは、音楽と料理を楽しむ夜会を開催するほか、パリの一流レストランのシェフ達と親しく交流していました。ロッシーニの名を冠したフランス料理は数多く存在します。パリのノートルダム大聖堂火事
2019年4月、フランス・パリのノートルダム大聖堂で火災が発生し、尖塔とその周辺の屋根が焼失しました。2022年現在、少しずつ修復作業が進められています。オクターブ
音楽用語で「完全8度の音程」の意。2つの音の振動数が1:2となる音程のこと。 SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』(ふるたみゆき)TOP