図2 楽譜《調和楽 越後獅子》

図3 楽譜《お江戸日本橋》

東京音楽学校研究科に進学した澤田は、活発に演奏活動を行います。彼が最初に高い評価を得たのは、《華麗なる大円舞曲》Op.18の演奏でした。続いて《ノクターン》Op.27 No.2などレパートリーを増やし、明治41年から演奏しはじめる《幻想即興曲》Op.66で「ショパン弾き」としての名声を確実なものにしました。

解説 「明治末期のクラシックの音楽会と演奏会場について②」 

ピティナ正会員 松原聡

澤田柳吉が登場した明治末期はどの様な状況だったのか?当時の来日演奏家とクラシック音楽会の状況について紐解いてみたいと思います。

1. 明治期の海外演奏家の来日状況

クラシックの普及熱を高めるのに、来日演奏家の公演が大きな刺激を与えるのは今も昔も変わりませんが、明治期にどんな演奏家が来日したのでしょうか?その事情は、正にその時代を知る堀内敬三の著書「音楽五十年史」に書かれ、明治20年代から時折外国の演奏家が来日して演奏会を開いていたが「いっこう優秀な人は来ていな」かったそうです。やがて20世紀に入り、ようやく明治40(1907)年7月に、帝政ロシアの名ソプラノ歌手マリア・ミハイロワ(1864-1943)が来日し、築地メトロポールホテルで演奏会を開いたのが、世界的な演奏家による本格的な来日公演の嚆矢と言えましょう。

図4 マリア・ミハイロワ 図5 築地メトロポールホテル

尚、当時の築地はヨーロッパ人居留地の一地区であり、メトロポールホテルは外国人に人気を博したそうです。1907年1月25日に帝国ホテルと合併し、その取締役会長を務めたのが、新一万円札の顔となる渋沢栄一でした。

次いで、明治44(1911)年1月にイタリアのテノール歌手、アドルフォ・サルコリ(1867-1936)が来日し、亡くなるまで日本に定住して声楽とマンドリンを教え、日本にベルカント唱法を伝え、三浦環等を育成しました。サルコリは、日本最初と思われるクラシックのSP録音を遺しています。

2. 明治期の日本人ピアニストの状況

澤田柳吉が日本人初のショパン・リサイタルを開催した当時の日本人ピアニストの状況はどの様なものだったのでしょう?特にショパンに絞ってざっと見て行きましょう。

早くは明治18(1885)年7月20日に上野公園地内文部省新築館での「音楽取調所卒業演習会」の、遠山甲子女によるポロネーズ(作品番号不詳)が最も早い時期の記録です。あとは、明治43(1910)年 12月4日に華族会館で開催された、音楽奨励会第二回演奏会で貫名美名彦(1889~1955)が幻想即興曲Op.66を披露しています。

なお、ショパンではありませんが、澤田柳吉と同時期のピアニスト久野久が、明治44(1911)年11月25 日付『東京日日新聞』に、東京音楽学校のオーケストラと、教授だったアウグスト•ユンケル(1868-1944)指揮でウェーバーのピアノ協奏曲(番号不詳)を試演の旨が記載されるなど日本勢も着実に実力を付け、澤田柳吉のショパン・リサイタルに至る素地は整っていたのです。

 図6 アドルフォ・サルコリ

参考資料

  • 「音楽五十年史(上)」 堀内敬三著 講談社学術文庫138
  • 「音楽五十年史(下)」 堀内敬三著 講談社学術文庫139
  • 「アドルフォ・サルコリの音楽活動に関する研究(1)」 直江学美著〈金沢星稜大学 人間科学研究 第10巻・第1号 平成28年 9月〉