47. チェルニー「30番」:第1番についての補遺―リュリの謎
本連載の第43回でチェルニー「30番」の第1番を扱ったとき、そのルーツが「リュリのジーグ」とされる作品にそっくりだ、という話をしました。しかし、そのルーツと思われる曲はルイ14世の宮廷で活躍したあのジャン=バティスト・リュリの作品とは到底思えない様式の鍵盤楽器のための作品でした。そもそもリュリは鍵盤楽器のための作品を書いていません。では、これは一体どういうことだったのでしょうか。
この問題について、読者の方から「ルイエLillet」という作曲家の名前と関係があるようだ、との見解を頂きました。そこで、このルイエについて調べていくと、どうやらあの「リュリのジーグ」はルイエの作品だったということが分かりました。
まず、なぜルイエが作曲した作品が19世紀にリュリ作として出版されていたのか。この混乱は、ごく単純に名前の類似から来ているようです。2人の名前を深比較してみましょう。
- ジャン=バティスト・リュリ(1632~1687)Jean-Baptiste Lully (1632~1687)
- ジャン=バティスト・ルイエ(1680~1730)Jean-Baptiste Lillet (1680~1730)
ファースト・ネームが同じです。しかし、彼らが生きた時代は7年しか重なっておらず、リュリのほうが半世紀ほどルイエよりも年上です。
しかし、リュリとルイエが混同される原因は、ルイエがイギリスに居たことと関係があります。19世紀に編纂されたフェティスの音楽人名事典によると、ルイエはフランスのガンという町の生まれで、初めフルート・トラヴェルソを学び、若くして名手の域に達しました。作曲家としての活動し、1702年にパリに赴き自作のフルート・ソナタを出版します。8年ほどパリに留まった後、彼はロンドンに赴き、自宅に音楽愛好家をあつめて週1回のコンサートを催すようになります。ここで愛好家たちがレッスンを行ったり作品を販売したりしたことで、かなりの収益を上げました。クラヴサン奏者でもあった彼は、ロンドンとアムステルダムで練習用のチェンバロ組曲をいくつも出版しています。
問題の「ジーグ」がロンドンで出版されたのはダニエル・ライト(Daniel Wright)という出版社からで、1717年頃のことです。ジーグは『ハプシコードまたはスピネットの練習:アルマンド、クーラント、サラバンド、エール、メヌエットとジーグ』と題された曲集に収められています。
さて、彼のチェンバロ組曲がこのロンドンで出版されたということが問題を引き起こします。楽譜に書かれた「ルイエLillet」の名前の発音は英語では「ルイエ」とは読まれなかったはずです。イギリス人たちが、ルイエがフランス人だということを知っていて語末の< t >を発音しなければ(フランス語では語末の子音は基本的に発音しません)「ルィレ」や「ルレ」と発音された可能性があります。これを後の19世紀から20世紀初期のイギリスやドイツの編集者たちが少しずつ知られるようになっていたリュリと混同してしまったと考えられます。
ルイエの「ジーグ」は、19世紀後半から20世紀初期にかけてヨーロッパ各地で出版されていました。その背景には、音楽史研究の進展によってピアノの隆盛とともに忘れられていたクラヴサン音楽を復興しようという動きがあります。この時期、古いクラヴサン音楽は、ピアノ曲のレパートリーに組み込まれていきました。次の表は、インターネット上で参照できたこの曲を含む5つの曲集をまとめたものです。左欄から、出版国、曲集タイトル、編者、「ジーグ」の作者の表記、出版情報となっています。
出版国
曲集タイトル
編者
作曲者表記
(リュリ/ルイエ)
出版地、出版社、出版年代
英
『ピアノフォルテ、その起源と進歩、構築』
エドワード・フランシス・リンボー (1816~1876)
「リュリ」
ロンドン, Robert Cocks and Co., 1860.
独
『年代順に並べたいにしえの鍵盤音楽』
エルンスト・パウアー(1826~1905)
「リュリ」
ライプツィヒ, Bartholf Senff, 1885.
仏
『フランスのクラヴシニスト』(第2巻)
ルイ・ディエメール(1843~1819)
「リュリ」
パリ, Durand et fils, *ca *1897
独
『クラヴサンの大家たち』(第2巻)
ルイス・ケーラー(1820~1886)
「リュリ」
ブランシュヴァイク, Henry Litolff's Verlag, 19世紀後半
米
『初期の鍵盤音楽』(第1巻)
ルイス・エスタール(Louis Oesterle)
「リュリ」
ニューヨーク, G. Shirmer, Inc., 1904
英
『ピットマン・ジーグ・アルバム』
アルトゥール・ヘンリー・ブラウン(1830~1926)
「リュリ」
ロンドン, Frederick Pitman, 年代不詳

図 『ピアノフォルテ、その起源と進歩、構築』(1860)の扉にある挿絵
面白いのは、イギリス、ドイツ、フランスで出版された楽譜が軒並み「リュリ」作としてこの曲を出版していたことです。「ルイエ」は本来フランスの作曲家であるにもかかわらず、逆輸入した際に「リュリ」になってしまった点は面白い点です。『フランスのクラヴシニスト』を編纂したディエメールはパリ音楽院教授マルモンテルの門弟で、自身も師のあとを次いでピアノ教授となりました。リュリ研究が進んでいなかった当時、さすがにこの作品をルイエ作と言い当てるのは、音楽院教授といえでも難しかったのでしょう。
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