音楽とは、創造を醸し出す葡萄酒である♪
♪ショパン作曲・ワルツ第4番ヘ長調 Op.34-3 通称『ねこのワルツ』
夢中で鍵一は弾いた。ショパン作曲、『猫のワルツ』。鍵盤が軽い。指がもつれる。猫速い。猫速い。8分音符の生け垣を突っ切り、へ音記号をかろやかに飛びこえ、猫は19世紀パリの夜を駆け抜けてゆく。こけつまろびつ追う鍵一が、ペダルを踏み違え、つんのめっては休符にぶつかりそうに息せききって走る走る。三和音の角でスッ転んだ鍵一を、猫はふわりとふりむいて、
『これは吾輩の獲物である。証拠はまだニャい』 金色の眼をきらりと光らせる。五線紙をくわえてそのまま、朧月夜へ消え去った…… 「……ありがとうございました……」 「ケンイチ君、弾けるねえ」 消え入りそうな声で音楽家たちへ一礼した鍵一、思わぬ拍手を受けて耳たぶが熱くなる。 「立派な腕前だよ。パリ音楽院のピアノ科の生徒と比べても、遜色ないんじゃないかな」 「ケンイチ君に乾杯!『大彗星のヴィンテージ』を開けるにふさわしい、素敵な夜や。かの楽聖ベートーヴェン先生の仰るとおりやな。『音楽とは、新たな創造を醸し出す葡萄酒である[※1](#c1)』♪」 フランツ・リストが上機嫌に自分のグラスに金色の飲み物を注ぐのを、アルカン氏が淡々と押しとどめて、 「リスト君、飲みすぎ。3分の1ずつっていう約束でしょ」 3人の音楽家たちは笑い合いながら、互いのグラスに彗星年のスパークリング・ワイン[※2](#c2)を注ぎ足している。鍵一はヨロヨロとテーブルに戻った。ナマズの蒸し焼きを口へ押し込み、この店のシェフが「ようこそ、『外国人クラブ』へ!」と手渡してくれたぶどうジュース[※3](#c3)のグラスを一気に飲み干して、ようやくホッと溜息をついた。 (よかった、急に即興演奏だなんて言われて、どうなることかと思ったけど……とりあえず弾いた、ぼくは弾いたぞ……自分の演奏がどうだったか、もうよく覚えてないけど……! それにしてもこの19世紀のプレイエルのピアノ、弾くのが難しいんだな。鍵盤はフワフワしてるし、音量を出そうとして強く叩いても鳴らないし、ロングトーンは伸びないし……皆さん、このピアノをどうやって弾くつもりなんだろう?) 「でもさ、変じゃない?」 視線を感じて顔を上げると、アルカン氏の紫陽花色の瞳が疑念の色を濃くしている。どきりとして鍵一は背筋をのばした。 「いまケンイチ君が弾いた『猫のワルツ』、パリではまだ出版されていなくて、ショパン君が作曲中のはずだけど。どうしてパリへ来たばかりのケンイチ君が、曲を知ってるの」 (しまったッ、迂闊だった……) 「ええと、その、パリへ着いてから少し、街を探検していたのですが、どこからともなく聴こえてきたんです、この曲を演奏するピアノの音が……ショパンさんに近しい方のお宅を、偶然通り掛かったのかもしれません……!ぼくは日本で西洋音楽の基礎訓練、ソルフェージュの勉強をして参りましたので、少しだけならその、耳で覚えて、曲を再現できるんです」 しどろもどろの鍵一の答えに、ヒラー氏が「すごいねえ」と身を乗り出した。 「ヨーロッパから遠く離れた日本でも、そういった音楽教育がおこなわれているのだね。ケンイチ君の師匠は、どんな御方なのかな?」 「はいッ、日本人のB先生と仰る方で、『21世紀の楽聖』……あッ、いえッ、作曲家であり、ピアニストでもある方です。最近は、音楽史の研究に力を注いでおられます……」 「へえ、いつか会ってみたいねえ。それからリスト君は飲みすぎ。ほらもう無いじゃない、おれたちの生まれ年の『大彗星のヴィンテージ』」 「それよりヒラー君、次はきみの番やで。『猫』がテーマの即興演奏!」 『博学のヒラー』こと、ドイツ出身のフェルディナント・ヒラー氏は笑って立ち上がると、 「それじゃ、ケンイチ君の『猫のワルツ』にあやかりまして。『名もなき猫に捧げるワルツ』を」 ピアノの前にどっかりと腰掛けるや、すぐに弾き出した。ふっくらとした手が温かなメロディを響かせてゆく。鍵一は目をみはった。 (プレイエルのピアノが綺麗に鳴り出した……!ぼくの弾き方と何が違うんだろう?)むかしむかしパリの街に 名もなき猫がおりまして
貴族の屋敷では優雅に振舞い サロンでは詩の題材になり レストランへゆけばネズミを捕り 子猫がいれば世話を焼く 誰も彼もがそのしっぽに夢中の 名もなき猫 ところがあるとき 名もなき猫はパリの街から消えまして 貴族の屋敷にも どのサロンにもレストランにも 影も形も見当たらニャい 探そうにも名前がニャい するとたちまち 誰も彼もが猫を忘れた 名もなき猫 とあるドイツの音楽家が 猫に思いを馳せまして 生涯その猫を忘れないよう 自分と同じ名前をつけましたとさ 『フェルディナント・ヒラー』とね見事な弾き語りをやりおおせて、ヒラー氏は豊かな和音を響かせた。
「さすがヒラー君、bravo!」 「ケンイチ君が探しているという、金色の眼の、つまさきの白い、フサフサの猫ね、早く見つかると良いねえ」 「はいッ、頑張って探します」 (どうしてヒラーさんが弾くと、ピアノの響きがこんなに豊かなんだろう。ぼくが弾いた時とは、まるで別のピアノみたいだ) 思案する鍵一をよそに、 「前口上を述べるのが今夜の流行りなのかな。でも、弾く前から手の内を明かすのはどうかと思う」 今度は『フランス・ピアノ界のエトワール』こと、シャルル=ヴァランタン・アルカン氏がすらりと立ち上がる。このmisterioso[※4](#c4)な音楽家は、ピアノの前に座ると紫陽花色の瞳で天を仰いで、そっと弾き出した。♪アルカン作曲:12か月集:12の性格的小品 Op.74より『夏の夜』
(またピアノの音色が変わった……!この人の話すフランス語の涼しい発音と同じく、大粒の真珠がセーヌ川の川底をゆるやかに流れてゆくような。あるいは、水月※5の景色の点描画が丁寧に描かれてゆくような……)
鍵一の聴き入るままに、ふたりの音楽家はテーブル越しに額を合わせて論評を始めている。 「どうよリスト君。アルカン君の『猫』、どんな猫だと思う?」 「フム。夏の夜に、宇宙から我々を見下ろしている猫の眼、やな」 「そのこころは」 「夏の夜、ふと空を仰ぐと、猫の眼のような三日月が煌々と地上を照らしていた。そのときふと思いついた。我々が月と仰ぎ見るものは、じつは巨大な『宇宙猫』の眼やないか……と。フランス革命、ナポレオン失脚、王政復古、ギリシャ独立戦争、等々、我々が歴史と呼び、書物に記す出来事は、『宇宙猫』にとっては微々たる光の明滅に過ぎひん。もし『宇宙猫』の網膜に刻まれる詩があるとすれば、ユダヤの民の聖典のみであろう。 ……と、いうところかな。どや、アルカン君?」 音楽家は友の解釈にウンとも否とも答えずに、謎めいた微笑を浮かべて弾きおさめた。鍵一の脳裏に宇宙船のかたちが浮かんで、 (確か、アポロ8号の宇宙飛行士が月から伝えてきたメッセージも、聖書『創世記』の一節だったな。でも、あれはユダヤ教ではなくてキリスト教の聖書かしら)[※6](#c6) 曖昧に思い起こす間に、音楽家たちはフルート・グラスを掲げて乾杯を繰り返している。 「そういえばアルカン君、ヘブライ語の聖書の翻訳は順調?」[※7](#c7) 「朝に夕に続けているよ。対象を深く研究するのに、翻訳という手法はとても有効だからね。 翻訳といえば、リスト君が熱心に書いてるあの曲も、パガニーニ氏のヴァイオリン曲の『翻訳』のようなものじゃない?」 「ほんまにそうやわ。じゃ、披露さしてもらおか。とっておきの暴れ猫♪」 「もはや、『猫』とは関係なさそうだけど」 アルカン氏がバゲットをつまむ隣で、ヒラー氏が気楽にグラスを傾けている。 「いいんじゃない、あの曲でしょ。リスト君による『パガニーニ研究の集大成』!」 演奏を待ちかねていたらしいフランツ・リストがピアノに飛びついてespressivo(※8)[※8](#c8)に弾き出した。途端、極彩色の花が咲き匂う。あふれ出したbrillante[※9](#c9)の色彩が鍵一の五感を殴る。♪リスト作曲 :パガニーニによる超絶技巧練習曲集 より『第6番』
(リストさんはまさに、ピアノ界のパガニーニ!※10すごいぞ、これをライヴで聴けただけでも、19世紀にワープしてきた甲斐があった……!B先生、ありがとうございます!)
「いやア、楽しかったねえ。乾杯!」
「ありがとうございました、皆さんの演奏を聴けて感動しました……!」 4つのグラスが明るい和音を奏でて、親しい晩餐は再開された。ナマズのしっぽ[※11](#c11)を呑みこんで、鍵一は再びインタビューを試みる。 「あの、皆さん、普段はパリでどんな活動をされているのですか?」 「ウチやヒラー君はヨーロッパをあちこち移動しながら活動してるから、パリに居いひん時期もあるけどな。日頃の活動というと、作曲、演奏活動、楽譜の出版の打合せ、ピアノメーカーとの打合せ、それに社交行事、やな」 「アルカン君はパリが拠点で、生徒への個人レッスンもよくやっているよねえ」 「本当は、もっと作曲に時間を割きたいけどね」 「皆さん、優れたピアニストでもあり、作曲家でもあるんですね……!」 「『ヴィルトゥオーゾ』と呼んでや」 うなづいて鍵一は、耳慣れないその単語を噛んでみる。笑ってヒラー氏が説明してくれた、 「自分たちで定義するのも、なんだか変だけれど。『優れた才能とセンスを持ち、皆のお手本となるような振る舞いのできる音楽家。徳の高い音楽家』といった意味でね」 「なるほど、『ヴィルトゥオーゾ』!そう呼ばれる方々が、このパリにはたくさんいらっしゃるのですね」 「これからきっとたくさん会えるよ。ケンイチ君はいつまでパリにいるの」 「期限は決めていませんが、ひとまず半年か、1年くらいでしょうか。できるかぎり、このパリで音楽家のみなさまの情報を集めたいと思います。いずれはその資料を日本に持ち帰って、師匠のB先生と一緒に、音楽史の研究に取り組むつもりです」 するとアルカン氏の紫陽花色の瞳が冷ややかに透きとおった、 「ショパン君作曲の『猫のワルツ』[※12](#c12)をもし日本に持ち帰りたいなら、本人に許可を取ることだね。ソルフェージュ[※13](#c13)の力を活かして聴き取りが出来たからって、楽譜に勝手に起こしてよいわけじゃないのだから。おおかた、ショセ=ダンタン地区[※14](#c14)を通り掛かって曲を耳にしたんだろうけど」 「はいッ……」 恐縮する鍵一へリストが「そもそも」と、助け舟を出す。 「ケンイチ君がピアノを始めたきっかけは何やったの」 「あの、ぼくは子どもの頃、師匠の弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いて感動して、ピアニストを志したんです。毎日ピアノの絵ばかり描いて……両親がトイピアノ[※15](#c15)を買ってくれると、一日中でも弾いて遊んでいました」 「へえ、ソルフェージュの指導というのはどんなふうに?」 と、ヒラー氏がさらに浮き輪を投げてくれる。 「まず、師匠のB先生が本を貸して下さるんです、日本の作家の書いた小説を……ぼくは毎週、その小説を読んだ感想を、8小節ばかりのつたないフレーズで弾いてみせます。B先生はそれをモチーフとして、即興でピアノ曲を弾いて下さいます。ぼくはその曲を聴き取って、楽譜に書き起こします。書いた楽譜をさらにアレンジして、初見で弾いてみたり……子どもの頃は、それをB先生が考案なさった遊びだと思い込んでいたのですが」 「ソルフェージュだね」 「そう、そうです!西洋音楽の基礎訓練だったんですね。音楽を聴いて、それを楽譜に書き起こす。初見の曲を演奏する。音楽理論を活かしてアレンジする……という。新人の登竜門たるコンクールで優勝するまで、ぼくがなんとかピアノを続けてこられたのも、あのB先生のレッスンで基礎を積んだおかげだと思います」 「日本の音楽事情は興味深いねえ」[※16](#c16) ヒラー氏がフランツ・リストを見遣ると、この19世紀音楽界を代表するスーパー・スターは何か思いついたらしく、 「提案があるんやけど」 と、目を輝かせて切り出した。 「ケンイチ君。このパリで、サロン・デビューを目指してみいひんか?」 「えッ、サロン!……って、それ、何ですか?」
つづく
◆ 注釈
音楽とは、創造を醸し出す葡萄酒である♪
『楽聖』と称される大音楽家ベートーヴェンは、ワインをこよなく愛していた。 この美しい飲み物を音楽に喩えたベートーヴェンは、表題の言葉を次のように続ける。 『私は人々のためにこの精妙な葡萄酒を搾り出し、人々を酔わせる酒の神バッカスである。』- 1811年はヨーロッパ全土でワインが大豊作であった。 同年に巨大彗星が現れたことから、この年のワインは『彗星年のワイン』と称され、珍重されている。 『外国人クラブ』にて音楽家たちが飲んでいるのは、老舗ワイナリー、ヴーヴ・クリコの1811年製シャンパーニュ。 なお、1811年は音楽界の大彗星、フェルディナント・ヒラーやフランツ・リストの生まれ年でもある。
ぶどうジュース
2019年現在、日本の法律では未成年の飲酒が禁止されています。 お酒は20歳になってから。misterioso(ミステリオーソ)
音楽用語で『神秘的に』の意。水月
池や湖などの水面に映る月。 実体の無い幻のようなものの喩え。アポロ8号
アポロ8号は、アメリカのアポロ計画における有人宇宙飛行。 1968年12月に月の周回軌道に入った飛行士たちは、地球へのメッセージとして、旧約聖書『創世記』の第1節から第10節までを交代で朗読した。- アルカン氏は自身の信仰を深め、聖書を研究するために、ヘブライ語の聖書をフランス語に訳す取り組みをしていた。 1858年、ヒラー氏に宛てた手紙で、『4分の3を訳し終えた』と書いている。 なお、アルカン氏はユダヤ教徒なので、彼の言う『聖書』とはヘブライ語聖書のこと。 ラテン語で書かれたカトリックの聖書とは異なる。
espressivo(エスプレッシーヴォ)
音楽用語で『表情豊かに』の意。brillante(ブリランテ)
音楽用語で『輝かしく、華やかに』の意。ナマズのしっぽ
第3話『ねこのワルツ♪』をご参照ください。ショパン作曲のOp.34-3、通称『猫のワルツ』の出版年
ロンドンとライプツィヒで1838年12月、パリで1839年1月に出版された。- 楽譜の読み書きなど、西洋音楽における基礎訓練。
日本の音楽事情
19世紀ヨーロッパでは、現代のような音楽コンクールは存在しない。 また、音楽家のマネジメントやサポートを担当する音楽事務所についても、ピアノについてはまだ存在しない。