前回までのあらすじ
18歳のピアニスト・鍵一は極秘ミッションを携え、19世紀パリへとワープする。悩み、恥じ、スッ転びながらも、芸術家たちとの交流は大きな収穫となる。

パリ・サロンデビューをめざして、オリジナル曲『夢の浮橋変奏曲』[※1](#c1)を創る事となった鍵一は、作曲に集中するため、1838年の大晦日にひとり船旅へ出た。英仏海峡を臨む港町、ル・アーヴルにて、鍵一は楽器製作者のエラール氏と再会する。幻の名曲『夢の浮橋』の復活上演をめざして、ふたりは協力することを誓った。2020年元旦の京都へワープした鍵一は、駅構内のピアノで即興演奏を披露する。山深き貴船[※2](#c2)の叔父のアトリエ兼住居に到着すると、日はすっかり暮れていた。

Twinkle Twinkle Little Start(きらきら光る小さなスタート)♪

障子を閉めた途端にちからが抜けて、鍵一は冷たいフトンにもぐりこんだ。凍った爪先を擦り合わせて、レストラン『外国人クラブ』の防寒具が恋しい※3。アトリエの板の間に簡易の寝床を敷いて眠るのが、妙にわくわくする。無造作に立てかけられた油絵のキャンバスを眺めれば、記憶がゆっくりと舞い上がる。

(そうだ、このアトリエの匂い。19世紀パリでお世話になった、レストラン『外国人クラブ』の2階の部屋の匂いと同じなんだ……むかしドラクロワさんが住んでいらした、あの部屋) 鍵一の記憶の中で、ドラクロワは喜々としてキャンバスに向かっていた。そのシャツの裾に飛び散り、絵筆に染みこみ、乾いてパレットにこびりついた、虹色の油絵具の匂い。 (ドラクロワさん、お元気だろうか……) 思ってみて、心が締め付けられた。あの陽気な画家は、とうに故人なのだった。1838年夏、ウィーンへのワープがなつかしい。[※4](#c4)

寝返りを打って硝子戸を指でこすると、凍った夜空に星々が瞬いている。遠い輝きに、鍵一は19世紀で出会った芸術家の面影を重ねずにはいられなかった。ふと、別の感慨も湧いて来た。

(そういえば、B先生から最初に習った曲が『きらきら星変奏曲』だったっけ。ピアノを習い始めてまだ1年にしかならないぼくに、先生は舞台で弾くことをすすめてくださった……) 渋る鍵一(6歳)に、『舞台はおもしろいぞ』とプロフェッサー・B氏は言った。 『舞台では、同じ曲を弾いても練習とは違った聞こえ方をする。どうしてかわかるかな?』 『……ホールが広いから、でしょうか』 『もちろんそれもある。ホールはよく響く。ピアノも違う。お客さんが大勢いる。お客さんの身体や服が音を吸収して、響き方が違ってくる』 『音楽が身体や服にしみこむなら』 鍵一はモゾモゾと言った、 『音は薫りと似てますね』 『そのとおり。したがって、音も薫りも《聞く》という』 初めての発表会は、横浜のコンサートホールで行われた。門下生の出番が年齢順だったので、鍵一の出番は早かった。舞台裏で、師はとっておきのジョークを教えた。『きらきら星』の英語タイトルをもじって、 『今日は鍵一の、ピアニストとしてのTwinkle Twinkle Little Start……きらきら光る小さなスタートじゃ』 開演のベルと同時に、舞台上へ飴色の光が満ちた。舞台へ踏み出した自分の靴音が、大ホールの一番奥の壁に届いて小さく跳ね返ってくるのを、鍵一は耳の端で捉えた……すぐに、靴音は拍手に掻き消された。リハーサルのときよりも、ピアノは随分大きく見えた。B氏の意向で、最上級のフルコン[※5](#c5)が鎮座していた。 じつに冷静に、鍵一は『きらきら光る小さなスタート』を切った。客席の耳という耳が自分へ吸い寄せられるのを、意外にもこころよく感じた。丁寧に弾けば、耳たちは丁寧に聴いてくれる。 pianissimo [※6](#c6)で弾けば、耳たちはひそまる。 espressivo [※7](#c7)で弾けば、耳たちは活き活きと伸び上がる。自分が指を正確に動かすたびに、ピアノから豊かな音が薫り立つのもおもしろかった。鍵一は耳を澄ませた。途中、自分の意図よりも残響の消えやすいところがあった。次に似たフレーズが来たときは音を少し長めに弾くと、うまく輝いた。師の言うとおりだと鍵一は思った。舞台はおもしろい。 ところが第11変奏の冒頭を弾きながら、右手の跳躍に合わせて高音部の鍵盤を見遣ったそのとき。 艶やかな紅色が目に飛び込んできた。 仄暗い客席の最前列に、紅色の大きな花束が用意されていた。ついぞ見たことのないほど美しい大きな花束が、さて、誰に贈られるのかしら……浮かんだ疑問符が音楽をさらった。そのまま手が止まった。客席が息を呑んだ。ふくれあがった沈黙が、コンサートホールの壁を圧している。 鍵一は両手をひざに置いて、ホールの天井を仰いだ。大小さまざまのライトが、満天の星らしく煌めいている。 『Twinkle Twinkle Little Start……きらきら光る小さなスタート』 師の声が彗星のように脳裏をよぎって、鍵一は納得した。 そうして、曲の冒頭(きらきら光る小さなスタート)からもう一度弾き始めた。どっと客席がゆるむ。弾き続けながら鍵一は、コンサートホールを巨大な生きもののように感じた。音楽を見守り、励ましてくれる、大きな耳の生きもの。今度は高音部の鍵盤を見ずに跳躍の音を射止めた。そのまま、12変奏を最後まで弾き切った。 拍手の嵐に向かってお辞儀をすると、舞台の下から紅色の花束が差し出された。かがみこんでその重みを受け取ったとき、師の庭に咲く薔薇と同じ薫りがした……

♪モーツァルト作曲:フランスの歌「ああ、お母さん聞いて」による12の変奏曲(きらきら星変奏曲) K.265 K6.300e ハ長調

(……人生には、『きらきら光る小さなスタート』がたくさんあるんだな)

なつかしい曲を思い浮かべる枕元に、なにかがフサリと着地した。 「ヒャッ」と跳ね起きた鍵一を、黄金色の瞳がおもしろそうに見つめている。鍵一が背中を撫でてやると、猫はゴロゴロと喉を鳴らした。 「ねえ、フェルマータ。おまえは19世紀の猫なのに、どうして21世紀に付いてきてくれたんだ?」 フサフサと猫がフトンにもぐりこむと、とても温かい。その瞳を眺めてふと、京都駅で貰った十円玉を思い出した。[※8](#c8) 手を伸ばして風呂敷包みのなかを探ると、その硬貨は確かに在った。初春の月灯りにかざし見て、ほんのりと謎は明るい。 (誰がくれたんだろう。もしかして、あの見事な演奏をしたピアニスト?[※9](#c9) それとも、ギリシャ神話に登場する調和の女神、ハルモニア[※10](#c10)……?) 月がいよいよ輝いている。鳳凰堂の画を月の光に晒し過ぎると、なにか常ならぬことが起きてしまう気がして、鍵一は急いで十円玉を仕舞った。 (さて、京都でやるべきことはたくさんある。まずは、B先生からいただいた『B級グルメ教本』[※11](#c11)を片ッ端から読んで、作曲の勉強をしよう。むかし教わった和声と対位法を復習しつつ、楽式論、楽器研究、書法研究、それに修辞学…… 19世紀でお世話になった皆さんに「春には戻ります」と約束したから、作曲期間は約3ヵ月間。スケジュールをどう立てようかしら……) 考えを巡らせながら、鍵一は夢のなかへ漕ぎ出して行った。

つづく

◆ おまけ