前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は恩師より謎めいたミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。19世紀パリの人々との交流から、鍵一は多くを学ぶ。リストの勧めでサロン・デビューをめざす最中、チェルニーから贈られたのは、幻の名曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。数千年にわたり受け継がれて来たという幻の名曲に心惹かれ、鍵一は『夢の浮橋変奏曲』※1の作曲に取り組む。現代日本に一時帰国した鍵一は、京都貴船※2の叔父のアトリエに身を寄せた。古都の風景に19世紀パリの思い出を重ねつつ、創作の日々が始まる。
幻の系譜(Ⅱ)―消えた楽譜♪

「『夢の浮橋』にまつわる伝説なら、他にもございます」

床の間に水仙を活けるような調子で、調律師は話を続けた。 「たとえばベートーヴェンの幻の名曲、交響曲第10番……現存するのはスケッチのみですが」 「えッ、まさか……!」 「『夢の浮橋』というタイトルの交響曲であった、という説を聞いたことがあります」 鍵一が考え込む間もなく、相手は「ショパンにも逸話がありますね」と畳みかけた。 「ショパンの死後に出版された曲集がありますでしょう」 「はい、作品66から作品74まで……幻想即興曲[※3](#c3)が含まれていますよね」 「ええ、ショパンの同郷の友人、ユリアン・フォンタナ[※4](#c4)が遺稿を整理し、1855年に出版した曲集です。しかしショパンの姉ルドヴィカの証言によれば、遺稿には元々、『夢の浮橋』という楽譜が含まれていた……と」 これには鍵一も言葉を失った。調律師は moderato [※5](#c5)で続けた。 「ルドヴィカ曰く、ショパンが最期を迎えた部屋の机の抽斗に、確かに『夢の浮橋』の楽譜が在ったそうです。ところが彼女が目を離した隙に、楽譜は煙の如く消えてしまいました。彼女はユリアン・フォンタナに相談し、手分けして楽譜を探し回りましたが、とうとう見つかりませんでした」 曖昧にうなづきながら、鍵一の脳裏に花と葉巻の薫りが立ち込めて来る。 (1838年春、夕暮のオペラ座に現れたショパンさんは、ぼくの手袋に目を留めてこう言った、『手袋の秘密を話す気になったら、その場所へ来たまえ。また会おう、ケンイチ』※6。そうして手ずから五線紙に書き付けてくれたのが、『夢の浮橋』というキーワードだった。つまり、『その場所』とは『夢の浮橋』のこと。ショパンさんのメッセージは、『幻の名曲の織りなす謎へ、きみも足を踏み入れて来たまえ』という意味か……!

でも『手袋の秘密』というのは何だろう?B先生からお借りした手袋に、なにか秘密が……?)

♪ショパン作曲 :幻想即興曲 (遺作) Op.66 CT46 嬰ハ短調

……と、そこへ叔父が上機嫌に戻ってきた。羽織の上からフラマン・ローズ※7のストールをぐるぐると巻きながら、

「どうも失礼をいたしました、また急用で私はちょいと出掛けて参ります。橋本さん、どうぞごゆっくり。あとは鍵一がお相手をつとめますから。オヤ、菓子が出てない。鍵一、 水屋 [※8](#c8)の宝船を。……では御免ください」 「すみません」と鍵一が台所へ急ぐと、なるほど古伊万里の蓋付菓子器が整えてある。絵柄は吉祥宝船。ずっしりと重みのあるそれを客間へ運んでゆくと、調律師は一目見て笑みを滲ませた。マイセンの紅茶ポットの隣に並べれば、かのアウグスト強王が夢見た日本宮殿[※9](#c9)の一部のようではあった。

さて、早春の琥珀糖をひとつふたつ、礼儀として食むと、調律師は雪見障子を見遣った。

「では、伝説の類はここまでとして」 「……はい」 「パリでの研鑽の成果をお聞かせ願えますか、坊ちゃん」

つづく

◆ おまけ