前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。リストの勧めでサロン・デビューをめざす最中、チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。19世紀で通用するコンポーザー・ピアニスト(作曲家兼ピアニスト)になるべく、鍵一は『夢の浮橋変奏曲』※1の作曲に取り組む。現代日本に一時帰国した鍵一は、京都貴船※2の叔父のアトリエに身を寄せた。古都の風景に19世紀パリの思い出を重ねつつ、創作の日々が始まる。

雪色の日課─チェルニー、魯山人、あるいはタヌキ♪

数日のあいだ貴船山は雪あらしに巻かれて、神社へ上る道も貴船川を下る道も通行止めになった。

「伊根の寒ブリ[※3](#c3)を頼んでたのになア」とヒゲを掻いた叔父をよそに、喜んで鍵一は冬籠もりをした。春までに『夢の浮橋変奏曲』を作曲するとなると、すぐにでも五線紙に音符を書き付けたいところ。しかし、鍵一の実力ではそうもゆかなかった。先人の足跡に学び、並行してピアノの腕を上げなければならない。鍵一はプロフェッサー・B氏の教え[※4](#c4)に従い、京都滞在中の計画を立てた。まずは当面の日課を決めた。 朝は雪の明るさで目が覚める。ぱッと布団をはねのけて、物を考えるより先にピアノへ向かう。ハノン[※5](#c5)のスケールを一巡してそのままエチュードへ。

♪チェルニー作曲:40番練習曲集(速度教本) Op.299

このエチュードの楽譜を、鍵一は1838年のパリで買った。「チェルニー先生が『30の訓練課題』の改訂版を出したらしい」と音楽家たちから聞いて、大通りの書店に走ったのだった。ところが書棚のどこにも見当たらない。

「あれはイギリスで出版されたからね、パリにはまだ無いよ」という店主に仕入れを頼みこんで、その日はモシェレス[※6](#c6)とヅィメルマン[※7](#c7)のエチュードを買って帰った。 ひと月待ってようやく『チェルニー40番』が届いた。1833年に出版された『30の訓練課題』から10曲が書き足されて、たしかに鍵一が子供のころから見慣れた『40番』であった。レストラン『外国人クラブ』のプレイエルで弾いてみると、ウィーン式のかろやかな鍵盤は『40番』を煌めかせた。思い立って、さまざまなピアニストのエチュードを弾き比べるのに熱中した。スケールやアルペジオ、跳躍に滲み出る個性を弾いてゆくと、まだ見ぬヴィルトゥオーゾたちの声が聞こえるような気がした。…… さて21世紀の京都にも『40番』は健在であった。離れの座敷から響き出す音色は朝の庭を飛びこえ、古美術商『鉄平堂』の看板を Molto allegro [※8](#c8)で打ち鳴らす。美術品をおさめた巨大な倉庫の屋根をスケールが駆けのぼり、朝陽に透けて24色に輝く。やがて母屋の台所に湯気がたつころ、鍵一はフランス語でゴーティエの詩を暗唱できるくらいには冴えている。

朝食後は読書をする。師の贈り物※9から、まずは『B級楽式論──西洋の伝統料理の型を知ろう──』を選んで読み始めた。ところが、日本語の文章がなかなか頭に入らない。特に漢字の意味が直感的に捉えられないのは参った。竹冠(たけかんむり)に蹴つまづき、飛び散った三水偏(さんずいへん)に視界を遮られると、もう一歩も進めない。

「単に忘れただけなら、放っときゃ治る。意味がわからないなら、わかるまで噛め」と叔父は笑った。 言われたとおり、鍵一はスルメの如く日本語文を噛んだ。噛めども噛めども味がしない。午後は本を閉じて、和声の課題をひたすら解いた。 日が暮れると貴船の家は闇に沈んだ。また困ったことに、21世紀のシーリングライトが鍵一の眼には眩しすぎた。叔父に頼んで和蝋燭[※10](#c10)をもらうと、踊るタヌキの絵柄がおもしろい。火を点して行燈の蓋を閉めれば、にぎやかな影絵が手元を照らした。 「京都でつくられた蝋燭ですか?」 「うん。 魯山人 [※11](#c11)が 夜咄 [※12](#c12)に使ったやつ」というので、鍵一は慌てた。 「そんな貴重な物を燃していいのですか」 「いい道具こそ使ってナンボ、なんやあ」と、京都弁ともつかない妙なイントネーションで叔父は母屋へ引き上げて行った。かつて風雅な茶事に灯された和蝋燭は、ロウが溶けるほどによい薫りがする。

♪チェルニー作曲:30番練習曲(30の技巧練習曲) Op.849※13

布団へ入る前には再び、チェルニーのエチュードを弾く。子供のころから指に染みついた『30番』。叔父の書斎に在った楽譜の初版は1856年。『40番』の18年後に出版されたという事実を、鍵一はおもしろく弾いた。難易度からすると『30番』が先に書かれたような印象をもっていた。

バッハの『平均律クラヴィーア曲集』[※14](#c14)にも似た音型を弾き出すと、チェルニー氏のレッスンルームの記憶が暖かい。濃厚なザッハトルテの味わいを思い出しながら、ホルン5度[※15](#c15)で貴船山のタヌキを驚かす。 Allegro leggiero [※16](#c16)で弾き進むうち、ふいに『楽式論』の一節が呑み込めたり、昼間に難航した和声課題の解がひらめいたりした。離れの座敷から響き出す音色は糸車をまわすように夜を紡いで、ほろ酔いの叔父の耳にシンフォニックな夢を織り込む。 やがて母屋の灯りが消えるころ、鍵一は『今日も一歩だけ進みました』と心のなかで師に報告できるくらいには疲れている。布団にもぐりこむと、チェルニー氏に贈られた『夢の浮橋』の楽譜を[※17](#c17)枕の下に敷いて眠る。 ところで猫に日課はなくて、フェルマータはたいてい五線紙の上でゴロンとしている。

つづく

◆ おまけ