前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューをめざす最中、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。

19世紀で通用するコンポーザー・ピアニスト(作曲家兼ピアニスト)になるべく、鍵一は『夢の浮橋変奏曲』[※1](#c1)の作曲に取り組む事とした。現代日本に一時帰国した鍵一は、京都貴船[※2](#c2)の叔父のアトリエに身を寄せる。古都の風景に19世紀パリの思い出を重ねつつ、創作の日々が始まる。

ベルリオーズの肖像♪

春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空

──新古今和歌集[※3](#c3)

不意に仰いだ虹のように、その歌は鍵一の心を躍らせた。

(『夢の浮橋』……!) 注釈によれば、歌人は藤原定家。平安末期から鎌倉初期にかけて生き、『新古今和歌集』の編纂に携わった人物。 (すると『夢の浮橋』という言葉は、少なくとも鎌倉時代には日本に存在したんだ。これが幻の名曲『夢の浮橋』を表すのなら……すごいぞ) 19世紀の楽器製作者、ピエール・エラール氏によれば、幻の名曲『夢の浮橋』の楽譜は古今東西に散らばる。古代ギリシャの天球音楽説[※4](#c4)から芽吹いた曲が京の都に現れることもまた、有り得るかもしれない。思わず鍵一は菓子盆から二つ三つ、たてつづけに八ツ橋を頬張って噎せた。

ピアノの前で呆然と和歌を眺めていると、ふと19世紀パリで出会った顔が浮かんだ。

(エクトル・ベルリオーズ……『幻想交響曲』[※5](#c5)で一世を風靡した、フランスの音楽家。1838年の夏の夜に『夢の浮橋』の歌を口ずさんでいらした[※6](#c6)……) その音楽家は鍵一に強烈な印象をのこしていた。 夏の夜の一件[※7](#c7)ののち、ベルリオーズは時折『外国人クラブ』にやって来た。鍵一は『夢の浮橋』について尋ねる機会を窺っていたものの、音楽家はたいてい酒に酔っており、あるいはシャルル=ヴァランタン・アルカン[※8](#c8)と熱心に話し込んでいたりして、なかなか近づけるものではなかった。 一度だけ、妙な関わり方をしたことがあった。1838年の冬、パガニーニから貰い受けた2万フラン[※9](#c9)を携えて、ベルリオーズは揚々とレストラン『外国人クラブ』へ来た。 「"Life's but a walking shadow, a poor player."(人生は歩きまわる影法師、あわれな役者に過ぎぬ)」[※10](#c10) 来るなり朗々とシェイクスピアを引用した。2万フランの小切手を突き出して、諸行無常につきドンチャン騒ぎがしたいと言う。直情径行の音楽家を軽くいなして、シェフは2フランの煮込み料理を出してやった。鍵一が付け合わせのチーズを運んでゆくと、音楽家は赤い髪を振り立てて鍵一を振り仰いだ。その瞳があまりにも澄んでいた。 そのとき扉が開いて、常連の面々が外套の雪を払いながら入って来た。鍵一とベルリオーズを見比べて、「妙な取り合わせだな」「ケンイチ君、彼に作曲を習おうとは思わないほうがいいよ。あまりに独特だから」と笑って肩をすくめた。口ごもった鍵一をさえぎって、いきなり音楽家は立ち上がった。 「諸君!よく聞いてくれたまえ。何を隠そう、おれは黄金の国ジパングの住人と似顔絵で勝負するのが長年の夢だった。今ここに夢が叶おうとしている。急で申し訳ないが、判定を頼めるだろうか。おれが勝ちか、ジパングの少年が勝ちか、よく見てほしい」 次いで、葡萄酒樽に寝そべっていたフェルマータを指さして、 「この猫をモデルにしよう。いいな、ジパングの少年!」 五線紙をひろげて猛然と書き出した。やむなく鍵一も五線紙をひろげた。常連たちは成り行きを見守っていた。……さて、鍵一がフェルマータの姿絵を描いているあいだに、ベルリオーズは猫の曲を書いたらしい。プレイエルのピアノに座るや Appassionato [※11](#c11)に弾き出した。たどたどしい演奏[※12](#c12)ながら、音楽は独特の輝きを放っていた。この一風変わった音楽家に勝ちを譲って、鍵一は厨房に引っ込んだのだった。……

五線紙に『ベルリオーズの肖像』と書き付けて、鍵一は考えた。かの音楽家に話したいことがあった。黄金の国ジパングは令和(Beautiful Harmony)の時代を迎えていること。自分の名は鍵一であること。歳は19で、日本では青年と呼ばれる年齢であること。

(何より、『夢の浮橋』……!エラールさん曰く、ベルリオーズさんも『夢の浮橋』に興味をもっていらっしゃるそうだから[※13](#c13)。ぼくの『夢の浮橋変奏曲』を気に入れば、心をひらいてくださるかもしれない) するとアイディアが湧いてきた。夏の夜に聴いた歌詞を書き出してみる。

いろはにほへと ちりぬるを

我が世たれそ 常ならむ 夢の浮橋 けふ越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず いちはいちいち 星と音とのマリアージュ 恋は実らず 実るは葡萄ばかりなり

♪夢の浮橋モチーフ

ベルリオーズの歌詞へ、慎重に『夢の浮橋』のモチーフを載せてみる。やわらかく引き伸ばし、和歌集から着想したフレーズ※14を練り込み、山をつくり、橋を架け、星のひかりをまぶして、ようやく形になった気がした。

気づけば日が暮れている。母屋から明るい出汁の匂いが流れて来た。鍵一はいそいでピアノの蓋を閉めると、五線譜の端に例の歌を走り書いた。

春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空

つづく

◆ おまけ