前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
名もなきシェフの肖像(Ⅶ)♪
――回想 シェフの肖像(1838年4月)
「1810年の春に、ナポレオンが再婚する事になった」と、シェフは本題に戻った。
「お相手はオーストリア皇女のマリー・ルイーズ様だ。俺はその大ニュースを『フレール・プロヴァンソー』[※3](#c3)の厨房で知った」 「ラ・ペ通りのショーウィンドウ[※4](#c4)ではなく?」 「ケンイチは勘がいいな」笑って、テーブルへ座り直した。 「カレーム先生に関わる大ニュースでもあった。なんと、あの人が婚礼の祝宴の総指揮を執るというんだ。ナポレオンの料理長として大宴会を取り仕切る、厨房の『皇帝』ッてわけだ」 「大役ですね……!」 「昔からそういう役職は有った」 笑ってシェフは立ち上がると、窓を大きくひらいた。リラの香りが涼しく吹き込んで、テーブルクロスを揺らした。 「14世紀の宮廷料理人タイユヴァンも、シャルル6世閣下のエキュイエ・ドゥ・キュイジーヌイジーヌ(料理長)だった。150人以上の料理人を指揮しながら、料理、食器、花、ランプ、鏡に至るまで、宴会の趣旨に沿った演出をする。やんごとなき方々を飽きさせないために知恵をしぼる。音楽で言えばカペル・マイスター(宮廷楽長)みたいなもんだ」 「名誉なお仕事ですね」 「どうだかね」と、この料理人は鼻をならした。 「ヴェルサイユ宮殿が賑わってたころまでは名誉だったんだろうが……今じゃ、パリの街なかに名料理人はごまんといる。そいつらがみんな宮廷に仕えたいかッていうと、そうでもない」 「それも音楽家と同じですか」 「ケンイチは頭がいいな」 返答に困って、鍵一はプレイエルのピアノの傍へ寄った。ついで、『皇帝』の冒頭を pianississimo [※5](#c5)で弾いた。権力への追従を良しとせず、ただし王侯貴族から庇護を受けていた楽聖は、かつてウィーンの宮廷楽長サリエリ[※6](#c6)に声楽の作曲を学んだ事もあった。♪ベートーヴェン作曲:ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」 Op.73 変ホ長調

「俺自身も、ナポレオンに仕えたいとは思わなかった。でも、カレーム先生には会いたい。親父が大貴族の屋敷で作っていたような、豪勢な料理を学ぶチャンスでもある。伝手を辿って、名のある料理人に紹介状を書いてもらった」
「紹介状……!」 「『皇帝』の厨房に志願したんだ」 
つづく
◆ おまけ
音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました
日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪ 第1話のみ、無料でお聴きいただけます。ピアノ独奏曲『夢の浮橋変奏曲』
鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されます。 ♪『夢の浮橋変奏曲』&音楽劇が聴けるピアノリサイタル(2022年) 京都・パリ 2つの古都のための片山柊ピアノリサイタル ―音楽劇『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』他―19世紀パリに実在したレストラン、フレール・プロヴァンソー
プロヴァンス地方の料理を出すレストラン。魚介をメインとした南仏料理は大変人気がありました。シェフがこの店に勤めた経緯は、第70話『名もなきシェフの肖像(Ⅳ)♪』をご参照ください。ラ・ペ通りのショーウィンドウ
アントナン・カレームが経営していた、ラ・ペ通りのパティスリーの件。 第71話『名もなきシェフの肖像(Ⅴ)♪』をご参照ください。pianississimo(ピアニッシシモ)
音楽用語で「非常に弱く・できるかぎり弱く演奏する」の意。ウィーンの宮廷楽長、アントーニオ・サリエリ(1750年-1825年)
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