前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
名もなきシェフの肖像(Ⅵ)♪
――回想 シェフの肖像(1838年4月)
「ひとつ確かなのは、あの時代……ナポレオンの時代に、俺たちフランス人は新しい国を作ってたッて事だ。正しいか間違ってるかはさておき、俺たちは大革命の次の時代に行こうとしていた。ラ・ペ通りのカレーム先生のショー・ウインドウ※3を見てると、未来は明るいぞと思う事ができた」
ピエスモンテ(大型装飾菓子)のスケッチを書棚に仕舞って、シェフは窓の青を見遣った。初夏の風がリラ[※4](#c4)の緑を揺らしている。……この花は鍵一が19世紀パリへ来て一週間も経たないうちに、ミモザの黄金色に代わり街中にあふれた。その和名に違わず、紫色のよい香りは百丁先まで届き、パレ・ロワイヤル[※5](#c5)の噴水を輝かせ、人々のフランス語に染み込み、モンマルトルの丘からショセ=ダンタン地区へと続く斜面を Dolce [※6](#c6)に覆った。レストランに居候中の日本人の持ち物も例外ではなかった。干したばかりの羽織袴にはリラの香りが染みついて、鍵一は胸をなでおろした。 (この花に、ぼくはパリの一部と見なされたんだ)と鍵一は考えた。背水の陣でワープして来た18歳にとって、それは心づよい事ではあった。 
「カレーム先生と再会したとき」と、シェフは話を続けた。
「俺は20歳になってた。1810年、ナポレオンが再婚した年だ[※7](#c7)」 記念すべき年号を「1810年!」と鍵一も繰り返して、誰かの生まれ年だったような気がする。初夏の疑問符をシェフが掬い上げて、 「ショパン君の生まれ年だ」 「そう、そうですね!」 「シューマン君の生まれ年でもある」と継いだ。 「ヒラーさんとリストさんは……」 「1811年」 「『彗星年の生まれ』[※8](#c8)でしたね」 「そうだ、ブルグミュラー君が居た」 シェフは笑って1810年生まれの音楽家の名を挙げた[※9](#c9)。19世紀半ばに出版されたピアノ教則本「25の練習曲op.100」[※10](#c10)を思い浮かべたところへ、「かわいそうに、早死にでさ。ドイツ音楽界の損失だ」というので驚いた。 「ブルグミュラーさんは、もう亡くなったのですか?」 「弟のほうがね。2年前の、ちょうど今頃の季節に。兄貴のフリードリヒ君[※11](#c11)が遺作を整理して……いい兄弟だったな」 すると、どうやら故人はピアノ教則本の作者とは違う人物らしかった。ブルグミュラー兄弟の面影を朧げに描いてみて、至極あたりまえの事がしみじみと思われた。 (1838年のパリにワープして来ても、会えない音楽家もいるんだな……)ノルベルト・ブルグミュラー作曲:ピアノ・ソナタ Op.8 ヘ短調

つづく
◆ おまけ
音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました
日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪ 第1話のみ、無料でお聴きいただけます。ピアノ独奏曲『夢の浮橋変奏曲』
鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されます。 ♪『夢の浮橋変奏曲』&音楽劇が聴けるピアノリサイタル(2022年) 京都・パリ 2つの古都のための片山柊ピアノリサイタル ―音楽劇『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』他―アントナン・カレームが経営していた、ラ・ペ通りのパティスリー
第70話『名もなきシェフの肖像(Ⅳ)♪』をご参照ください。リラ
モクセイ科・ハシドイ属の植物。英名ライラック。フランス語ではリラ。和名は紫丁香花(ムラサキハシドイ)。パレ・ロワイヤル
パレ・ロワイヤルは、パリ中心部に位置する元・王宮。ルイ13世の宰相・リシュリュー(1585年-1642年)の死後、この館でルイ14世が幼少期を過ごしたことから、パレ・ロワイヤル(王宮)と呼称されるようになりました。王がヴェルサイユ宮殿に移り住んでからは、ルイ14世の実弟、オルレアン公の館となります。1784年、オルレアン公5代目のフィリップ・ドルレアンが館を改装し、レストランなどが入る商業施設となりました。Dolce(ドルチェ)
音楽用語で「甘く柔らかに、甘く優しく」の意。1810年、ナポレオンが再婚
1810年、皇帝ナポレオン一世はオーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚しました。彗星年の生まれ
第4話 『音楽とは、創造を醸し出す葡萄酒である♪』をご参照ください。ノルベルト・ブルグミュラー(1810年-1836年)
ドイツ・レーゲンスブルグ出身の音楽家。持病のため早世し、シューマンやメンデルスゾーンなど、音楽仲間がその死を悼みました。ピアノ教則本「25の練習曲op.100」(1851年出版)の作曲家として著名なヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルクミュラーは、ノルベルトの兄に当たります。ヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルクミュラー(1806年-1874年)
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