前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。

まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船[※1](#c1)に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』[※2](#c2)の作曲は徐々に進む。雪深き1月下旬、鍵一はクロワッサンを焼きながら重要な気づきを得た。

東風(はるかぜ)を聴く♪

夢うつつに氷の解ける音を聴いた。鍵一の耳に、それはベートーヴェンのピアノ協奏曲5番の冒頭、あの鮮烈な序奏※3のように響いた。

♪ベートーヴェン作曲:ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」 Op.73 変ホ長調

跳ね起きて、枕元に五線紙が散らばっている。『夢の浮橋変奏曲―「シェフの肖像」』を推敲しながら眠り込んでしまったのだった。数日前、焼きたてのクロワッサンに誘われて一気に書き上げたものの、熱が冷めるとバターは固く、食感は粗く思われて結局、イチから練り直す事になった。

冷めた珈琲をひとくち飲んで縁側へ出ると、東雲に甘い匂いが漂っている。母屋へ続く竹垣に土偶[※4](#c4)が載せてあり、叔父なりの 柊鰯 [※5](#c5)の代わりらしかった。 ――春が来る。 わけもなく鍵一は震えた。それが焦燥なのか、奮起なのか、自分にも分からなかった。

挿絵

2月3日、鍵一は叔父に連れられて、貴船神社の節分祭に赴いた。途中、未だ雪の濃い道に郵便ポストを見て、そのあざやかな朱色に驚いた。

「何を驚いてんだ」と叔父は笑った。 「ポストなんて太古の昔から赤いじゃないか」 「いいえ、その」十九世紀パリでは青かったもので[※6](#c6)、とは言えずに、曖昧に濁して石段を上った。 神殿ではすでに、神主が伏し拝んでいた。隣に赤と緑で装飾された、大きな銅鑼がみえた。すると祝詞が始まった。まわりの人々が一斉に首を垂れたので、ふたりも倣った。 水を祀る神社らしく、祝詞は耳に明るかった。神殿の屋根に溜まった雪解け水が、きらきらと樋を伝い落ちては地面に沁み込んでいた。鍵一の足元のきれいな砂利も、ところどころ黒く濡れていた。ふと、祖父の造った水琴窟の、地中に踊る水音を思い出した。[※7](#c7) それは京都圓光寺の水琴窟[※8](#c8)を模して、祖父が数十年前に造ったものだという。大きな盃のかたちをした鉢の下に、これまた大きな水甕が埋まっている。鍵一は小学生の夏休みに掘ろうとして、底が深くて掘りきれなかった。……その水琴窟も、辿れば貴船の水の恵みを享けている。すると今、鍵一は彼岸の祖父と近しいところに居るような気がした。

挿絵

つづく

◆ おまけ