前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。

まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船[※1](#c1)に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』[※2](#c2)の作曲は徐々に進む。雪深き1月下旬、鍵一はクロワッサンを焼きながら重要な気づきを得た。

旅する楽譜♪

「音響栽培?ああ、ワインとか?」

かまどで暖を取りながら、叔父は事もなく鍵一の興味を言い当てた。 「やっぱりワインなんですね?」 勢い込んだ鍵一へ「いや、米とかトマトとかさ。色々あるんじゃないの、音楽を聴かせる栽培方法[※3](#c3)。よく知らんけど」と叔父は笑った。 「音楽を聴かせると、特別に美味しくなるのでしょうか?」 「どうだろな。聞いた話によれば、音の振動が農作物の光合成を促して、なんやかんやで旨味が増すんだとさ」 あやふやな知識を遮って、炭が激しく爆ぜた。ふたり同時に煉瓦のかまどを窺う。耳を澄ませると、中でムスムスとクロワッサンの焼ける音がした。叔父は手早く灰を掻いて、まるで五重塔の模型を組み立てるように、絶妙な具合に備長炭[※4](#c4)を積み上げた。 「しかし、なんで急に音響栽培なんだ」

挿絵

注意深く鍵一は打ち明けた。留学先のパリで耳にした、彗星とワインにまつわるふしぎな伝説について。曰く、彗星の輝く晩に特別な曲を演奏すると、応えて彗星が歌い出す。その音の振動が地上に届くと、葡萄が豊かに実るという。パリのレストランのシェフは、それを「彗星による音響栽培」※5と称していた……

「ははア、『彗星年のワイン』か」 「ご存じなんですか」 「昔々、サザビーズ[※6](#c6)の使いッ走りをしてたころ」と、古美術商は棒きれを拾って、雪上にワイン・ボトルらしきものを描いてみせた。 「パリで開催されたオークションを手伝った。出品の目玉は、19世紀の難破船から引き揚げられた1ダースのワイン・ボトルだ」 「1811年のワイン、ですか?」 「そう、巨大な彗星が現れた年のワイン。彗星と葡萄の関係は分からんが、ともかく1811年はワインの当たり年だった。コルクに1811の刻印があったんで、その年のワインだと判明した。ボトルはほとんど割れてたんだが、数本だけ無事なのが有った。面白いことに、うち1本にはワインじゃなく、古い楽譜の切れ端が入ってた」 「えッ、楽譜……!」 思わず立て続けにクシャミが出た。1839年の海辺で、楽器製作者のピエール・エラール氏は確かにこう言っていた、「ある音楽家は、『夢の浮橋』の楽譜をワイン・ボトルに詰めて海に流した」[※7](#c7)…… 「専門家が鑑定したんだが、誰が書いた楽譜なのか、何の曲なのか、さっぱり分からない。ベートーヴェンの自筆譜なり、ショパンのサイン入りの初版譜なりと断定できれば、値打ちがあるんだがね。でなけりゃ、単なる古い紙切れでしかない。楽譜入りのボトルの最低落札価格は、日本円にしてたったの3千円。ワインの入ったボトルのほうは、1本5百万円から競りが始まった」 「はア」 「ところが」と、marcato[※8](#c8)で発音した。 「開始早々、なんとその楽譜入りボトルを真っ先に落札した人がいた。しかも、ワイン入りのボトルの倍以上の金額で。会場がドヨめいたなあ。妙な空気になって、それから笑いと拍手が起きた」 「誰だったんですか、楽譜を買った人は?」 「さあな。公表されてないし、俺は下ッ端だったんで知らない」 「音楽家でしょうか」 「まア、物好きなコレクターだろうな。歴史的価値のある楽譜なら、フランス国立図書館[※9](#c9)やプロイセン文化財団[※10](#c10)あたりが買い上げそうなもんだが。そりゃ作曲家が判明していればの話だ」 ウンと伸びをして、叔父は朝空を仰いだ。ヒョイと振り向くと、 「案外、おまえの師匠だったりしてな」 おもしろそうに言い出した。 「B先生が……?」 「北海道にワイン農園を持ってるほどのワイン通だろ。音楽史の研究のために、古い楽器や楽譜を相当集めてる」 冬の樹々がざわめく。山鳥の声が高くなる。『21世紀の楽聖』こと、プロフェッサーB氏の面影が、海中から引き揚げられたワイン・ボトルに映っていた。鍵一は屈み込んで、雪上のワイン・ボトルのとなりに『夢の浮橋』のモチーフを書いた。

♪『夢の浮橋』モチーフ

挿絵

つづく

◆ おまけ

  • 音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました

    日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪ 第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
  • 貴船(京都市左京区)

  • ピアノ独奏曲『夢の浮橋変奏曲』

    鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されます。 ♪『夢の浮橋変奏曲』&音楽劇が聴けるピアノリサイタル(2022年) 京都・パリ 2つの古都のための片山柊ピアノリサイタル ―音楽劇『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』他―
  • 音響栽培

    農作物に音楽を聴かせ、生長を促進させる方法。音の振動(音波)が植物の気孔の開閉を促し、豊かな風味をつくりだすと考えられています。 クラシック音楽による音響栽培の事例としては、ピアノを聴かせて栽培した浜松市の「踊ら米(まい)か」、モーツァルトを聴かせて栽培した鹿児島県の「クラシックブドウ」など。
  • 備長炭

    木炭の一種。備長炭は火力が強く、燃焼時間が長いことから、よく調理用の炭として用いられます。主な産地は和歌山、高知、宮崎など。
  • 「彗星による音響栽培」

    第76話『名もなきシェフの肖像(Ⅹ)♪』をご参照ください。
  • サザビーズ

    1744年にロンドンで設立された国際競売会社。本拠地はニューヨーク。
  • 「ある音楽家は、楽譜をワイン・ボトルに詰めて海に流した」

    第42話『春の海♪』をご参照ください。
  • marcato(マルカート)

    音楽用語で「一つ一つの音をはっきりと演奏する」の意。
  • フランス国立図書館

    フランス・パリに位置する国立図書館。14世紀に王立図書館として設立され、18世紀末のフランス革命を経て国立図書館に。皇帝ナポレオンの治世下では帝政図書館とも称されました。1994年より、現在のフランス国立図書館として運用されています。 蔵書はフランス国内の出版物のほか、古文書、地図、版画、レコードなど多岐に亘ります。 また、ルイ14世時代の宮廷音楽家(リュリクープランなど)や、フランスで活躍した音楽家の楽譜が数多く収蔵されています。
  • プロイセン文化財団ベルリン国立図書館

    ドイツ・ベルリンに位置する国立図書館。ベルリン州立図書館とも呼ばれます。運営はプロイセン文化財団。17世紀にプロイセン公フリードリヒ・ヴィルヘルムにより王立図書館として設立され、18世紀初頭にはベルリン王立図書館、20世紀前半にはプロイセン州立図書館と改称されました。 1913年に開設された1号館と、1978年に開設された2号館が現在も使用されています。 蔵書は1,000万冊以上とされ、地図、絵画、楽譜などの収蔵も。特にドイツで活躍した音楽家の楽譜が充実しており、J.S.バッハなどの自筆譜が数多く収められています。 SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』(ふるたみゆき)TOP