前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。

まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船[※1](#c1)に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』[※2](#c2)の作曲は徐々に進む。2月初旬、鍵一は河井寛次郎記念館[※3](#c3)で陶芸家に出会った。

水の戯れ(Ⅰ)♪

翌日の午後、アトリエに掛けると陶芸家がすぐ出た。「ああ、鍵一さん」と数十年来の知己のように声がはずんだ。

「ちょうど良かった。今日はピアノ曲を聴きながらろくろを回したいなあと思って。なにかおすすめはある?」 「ええと……なにを創るんですか?」 「蕎麦猪口。お世話になっている蕎麦屋さんに頼まれて、六つくらい。自由に創っていいとは言われているけど、お店でお客様に出すものだから、サイズや容量はできるだけ揃えたくて」 「お猪口によって蕎麦つゆの量が違ったら、ちょっと気まずいですもんね」 「そう、そう。まあどうしても、ひとつひとつの表情は違うものになるんだけど。ろくろに載せて、できるだけ同じ速さで回しても、水と土の神様の采配でそれぞれ違うものになるの。窯に入れたら火の神様の領分だから、わたしの与り知らぬところでそれぞれの顔付きが決まる」 「そうなんですね」 「ちなみに、土は 信楽 。信楽焼[※4](#c4)といって、よく蕎麦屋の店先にたぬきが居るでしょう、あの土と同じ」 「あれ、でも信楽は滋賀県ですよね?」 「おかしいでしょ。京都ではあまり陶土がとれないので、土はよその土地から買ってるの」 「初耳です。それで、ろくろを回すときのピアノ曲ですか……」 「ああ、ごめんなさい。先に鍵一さんの用事をどうぞ」 心当たりの曲を、弾こうかどうか迷ってやはり、本題を先に切り出す事にした。

♪ラヴェル:水の戯れ ホ長調

しどろもどろの鍵一の説明を、陶芸家は電話口でじっと聴いていた。『夢の浮橋』の絵巻の件※5まで話が及ぶと、ようやく口をひらいた。

「鍵一さんはどうしてその、古代の曲を復活させようとしているの?」

挿絵

「ええと……パリに留学していたときに、『夢の浮橋』の復活上演をしたいという人に出会ったんです。エラールというピアノメーカーの、その……ピアノ調律師の方なんですが※6

「人に頼まれたとか、そういうことじゃなくて」と、陶芸家の声は tranquillo [※7](#c7)に続いた。「鍵一さん自身がどう思っているかを聞きたいの」 受話器を耳に当てたまま、鍵一は口ごもった。 「……その、いろいろといきさつがありまして、ぼくは『夢の浮橋』の楽譜の断片を持っているんですが」 「うん、うん」 「モチーフが夜空に架かる橋のようで、とても綺麗だと思ったんです」 「そうなんだ」 「彗星の輝く晩に演奏されるという伝説もありまして……」 「なるほど。夜空に架かる橋ね」 「原曲はもっと長くて、壮大な音楽のようですので、それを聴けたら楽しいだろうなと……」言いながら焦った。ショパンから提示された謎[※8](#c8)や、チェルニーより託されたモチーフの美[※9](#c9)、ピエール・エラール氏の情熱に共鳴してここまで来たものの、自分自身の興味はごく単純なものであった。 「すみません、理由はそれだけです」 「よくわかった。ありがとう」 電話口に沈黙が流れた。息を詰めて鍵一は待った。陶芸家の思案の背景に雨音が混じっている。思わず庭を見遣ると、しかし貴船の空は晴れていた。フェルマータが水琴窟の鉢[※10](#c10)から水を飲んでいる。……やがて、明るい声が耳に届いた。 「随分前の事だけど、古伊万里[※11](#c11)の修復プロジェクトに携わったことがあるの。すごく大きな水甕で、江戸時代に伊万里港からパリに運ばれたものだった。 そのプロジェクトにはいろんな人が関わっていて、わたしのように長崎出身の陶芸関係者とか、京都の漆芸家とか、パリの美術館の学芸員とか。皆で修復プランを練って、割れや欠けを漆で継ぎ合わせて、継いだところに金粉をまぶして…… もちろん、それはオリジナルの姿とはすこし違うんだけど、いい仕上がりだった」 うなづいて、鍵一は古伊万里の水甕を想像してみた。さまざまな人の手で継ぎ合わされた巨大な水甕。想像の甕はろくろに載せられて回転するほどに小さくなり、舞い上がる金粉は土に染みて、ひょっこりと蕎麦猪口の姿になった。

挿絵

つづく

◆ おまけ