前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。

まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船[※1](#c1)に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』[※2](#c2)の作曲は徐々に進む。2月初旬、鍵一は河井寛次郎記念館[※3](#c3)で陶芸家に出会った。

水の戯れ(Ⅱ)♪

「その、古伊万里の水甕は」鍵一は尋ねた。「どこかで見られますか」

「パリのルーブル美術館で。……それを見ると、いろんな人の顔が浮かぶの」 陶芸家の声に懐かしさが滲んだ。受話器に耳を押し当てて、鍵一はそのこころを聴いた。

挿絵

「まずは、江戸時代の陶工のこと……当時の日本の焼きものは、東インド会社の御商売の都合※4もあって、どうしても中国陶磁器の模倣になってしまうんだけど。その水甕には、日本古来の紋様や、絵付のあたらしい技法にチャレンジした形跡があった。ベストを尽くしたんでしょうね。

船乗りたちも良い仕事をしたと思う。彼らは伊万里港からインドネシアのバタビアを経由して、1年かけてロッテルダムの港まで水甕を運んだの。すごいよね。帆船はコントロールが難しいし、嵐が来ればどこへ漂着するとも知れない。海賊もうじゃうじゃいる。なんとかロッテルダムに辿り着いたあとは、陸路を馬車で。パリまで1か月は掛かったんじゃないかな。ぶじにマリー・アントワネットの御眼鏡に適って、水甕はベルサイユ宮殿の大広間に飾られたそうよ」 思い描いた薔薇色の空間に、鍵一はふとセバスチャン・エラール[※5](#c5)の面影を見た。神秘の国の水甕にどのような音色が映えるか、楽器製作者は巧みに計算したに違いない。

挿絵

「では、水甕はずっとベルサイユに?」

「いいえ、フランス革命で宮殿が襲撃されたとき[※6](#c6)、ルーブルに移されたみたい。他の美術品と同じように一般公開されていたんだけど、ナポレオンが失脚すると国外に持ち出されて[※7](#c7)。それから二百年間もヨーロッパ各地を転々と」 「長旅でしたね」 「そう、旅する水甕。割れたり欠けたりしながら。たくさんの人がそれを未来に運んできたんだよね」 うなづいて、鍵一はむずむずと口をつぐんだ。電話口の fermata [※8](#c8)を、陶芸家は共鳴のしるしと捉えた。 「鍵一さんから『夢の浮橋』の話を聞いて、その水甕を思い出した。古代の名曲にも、水甕にも、なにかふしぎなちからが宿っているんだと思う。昔の人、今を生きている人、未来の人……たくさんの人を繋ぐちからが」 「……ぼくもそう思います」 今度は陶芸家が黙した。その背景に和やかな雨音が満ちている。受話器に耳を当てたまま、鍵一は庭を見遣った。猫のフェルマータの姿はなかった。水琴窟の鉢から、ほたほたと春の光が零れている。 「貴船は晴れてる?」話題はふわりと飛んだ。 「はい。そちらは雨ですよね」 「わかる?」 「雨の音が聞こえます」 「すごいね、窓を閉めてるのに。わたしが水玉模様のセーターを着てるせいかな?」 笑って鍵一は空を仰いだ。煙る青が、春の海の色に見える。古伊万里の湛えた水の色にも見える。『夢の浮橋』に由来するワインボトルの色にも見える。……晴ればれとした思案の彼方に、陶芸家の声が響いた。「そういえば」

挿絵

「鍵一さんの言うとおり、わたしの持っている絵巻物は『夢の浮橋』に関係があると思う」

「えッ、本当ですか」 「実家の土蔵に仕舞ってあったもので、あまり人に見せた事はないんだけど。よければ、週末に持っていくね。『鉄平堂』さんはご在宅?」 古美術商の都合を聞き、貴船の住所をたしかめて、電話は明るく切れた。 縁側に陽が射している。 うんと伸びをして、鍵一は春の午後を吸い入れた。耳の奥にはまだ、陶芸家の声がたゆとうていた。言葉は光を帯びて連なり、煌めく羅針盤として鍵一の手に有った。旅する水甕。パリのルーブル美術館。絵付。航海。ベルサイユ。革命。漆芸。水玉模様。たくさんの人を繋ぐちから。『夢の浮橋』の絵巻物…… 離れの座敷に戻ると、猫はピアノの上でまどろんでいた。フサフサと撫でれば、しっぽがゆらゆらと応える。Très doux[※9](#c9)に弾き出した音色が、陶芸家のアトリエへ届くよう願った。

♪ラヴェル:水の戯れ ホ長調

つづく

◆ おまけ