前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
シーボルトのカメラ♪
魚上氷 [※4](#c4)午後、陶芸家はバウムクーヘン[※5](#c5)を手土産に来た。古美術商となごやかに挨拶を交わし、雪の残る庭を見わたして、 「すてきなアトリエねえ」 しきりに褒めた。この貴船の山奥で、登与子の山吹色のロングコートは春のかたまりだった。彼女がゆらゆらと庭を歩くと、草木がそちらになびいて、我も我もと春へつられてゆくように見えた。ふいに、鍵一は19世紀パリの春を思い出した。セーヌ川に沿って眩しく続くミモザの道。時空を隔てた遥かな黄金色が、決して登与子と無関係ではなかった。 
「
川原慶賀
※6という、わたしのご先祖様らしき人の描いたものです」

「シーボルトは日本の風土の研究をしてたんだけど、当時はまだカメラがないでしょう。だから、慶賀に頼んで」
「絵を描いてもらったのですね……!」 「そう、そう。当時、写実画が上手い絵師なら長崎にたくさん居たようだけど。なかでも慶賀は、シーボルトと気が合ったんでしょうね。好奇心も旺盛だったと思う。日本の植物や魚の絵を何百枚も描いたほかに、西洋音楽の風景も描いてた。長崎で上演されたオペレッタとか」 Animato [※10](#c10)に話し続けながら、登与子の手が絵巻をひろげる。長机に顕れた風景を見て、さしもの叔父も唸った。鍵一は案外しずかな心地で居た。チェルニー氏から託された楽譜を眺めながら、エラール・ピアノの音色を夢に聴きながら、思い描いてきた演奏風景がいま、目の前に在った。♪夢の浮橋
つづく
◆ おまけ
音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました
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鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。2023年5月27日(土)、本作の音楽朗読劇とともに抜粋版が演奏されます。河井寛次郎記念館
陶工、河井寛次郎(1890-1966)の住居兼アトリエを基とした私設美術館。2023年に開館50周年を迎えます。魚上氷(うおこおりをいずる)
七十二候のうち2月14日~2月18日頃。氷が割れ、魚が跳ねる頃。バウムクーヘン
ドイツの伝統菓子。ドイツ語でバウム(Baum)は「木」、クーヘン(kuchen)は「ケーキ」。- 川原慶賀の作品は、シーボルトやオランダ商館員によってオランダに持ち帰られたため、その多くがオランダにあります。2018年にはオランダ国内で慶賀作の屏風が見つかり、ライデン国立民族学博物館の所蔵となりました。
箱書き
書画・茶道具などを納めた箱に、作者名や由来などを記すこと。また、署名そのもの。所有者が記す場合もあります。- ドイツ人の医師シーボルトは、1823年にオランダ商館医として来日した際、イギリス製のスクエア・ピアノ(ウィリアムロルフ・アンド・サンズ)を長崎に持ち込みました。このピアノで、2022年にはコンサートが開催されました。 ※記事中の「日本最古のピアノ」という表記について。「シーボルトのピアノ」は日本に初めて到着したピアノである可能性がありますが、後年、より古い年代の楽器が複数、日本に渡来しています。
Animato(アニマート)
音楽用語で「元気に、活き活きと」の意。 SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』(ふるたみゆき)TOP