前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。

まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船[※1](#c1)に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』[※2](#c2)の作曲は徐々に進む。2月初旬、長崎出身の陶芸家・登与子が『夢の浮橋』の探究に加わった。

スプリング・ソナタ芽吹いて♪

accelerando [※3](#c3)で日は暮れて、陶芸家が山を下りる時刻になった。 車を待つあいだ、鍵一は水琴窟[※4](#c4)をみせる事を思いついた。連れ立って庭を行く影が黄金色に滲んでいる。 「祖父が造ったものなんです」 「忘れ形見という事ね」 「骨董趣味が高じて身代を崩した人です。京七宝の贋作を買ってしまって、夜逃げ同然で……」[※5](#c5) 「粋人でいらしたのねえ」と明るく言われてみれば、京都から横浜へ移住した家系の歴史が、さほど悪くない出来事のように思われた。

挿絵

圓光寺の水琴窟※6を模した盃型を登与子は喜んだ。

「このタイプの造形はめずらしいね」 柄杓を取って、雪解け水を汲んでは地中に掛けまわす。ふたり屈み込んで、じっと耳を澄ませた。地中に踊る水音が――聴こえない。 顔を見合わせて、次は鍵一が試した。――やはり、聴こえない。祖父の水琴窟は頑なに黙して、その理由さえ語ろうとしなかった。まるで自分の過失のように、鍵一は恥ずかしくなった。 「すみません」 「鍵一さんは謝らなくていいよ」陶芸家は笑った。「春先にはよくある事よ」 「そうなんですか?」 「草木の根っこが地面のなかで伸びて、水甕にひびを入れてしまうことがよくあるの。甕が割れると音は鳴らない」 「なるほど……」 「しょうがないよ、春だから」 春だから。……そのフレーズはベートーヴェンのスプリング・ソナタ[※7](#c7)のように、鍵一の心を和らげた。 「そうですね、春だから」 「もう少し暖かくなったら、『鉄平堂』さんに相談して掘り出そうか。もし新しい水甕が必要なら、わたしが焼くよ」 「いいんですか?」 「もちろん。大きなものを焼きたい気分なの。銘は『夢の浮橋』かな」 笑顔で請け合って、陶芸家は帰って行った。車を見送って、鍵一は母屋へ戻った。夕餉の煙が香ばしい。台所を覗くと、特大の中華鍋が鼻歌まじりに躍っている。古美術商もまた、大きなものを焼きたい気分らしかった。

♪ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第5番「春」 Op.24 ヘ長調

挿絵

つづく

◆ おまけ