前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。
花と宇宙と音楽と♪
「ということは」登与子は夢見るように宙を仰いだ。「文政7年……1824年に、幻の名曲『夢の浮橋』は長崎で演奏されたのかしら?」
「コンポーザー・ピアニストの見解が要るんじゃないか」 水を向けられて、鍵一は絵巻をつぶさに見た。平行弦[※3](#c3)のグランド・ピアノ。ペダル式のエラール・ハープ[※4](#c4)。長々と尾を引く彗星と、奏者の手に掲げられたワイン。 「可能性はあると思います」 その絵巻から largamente [※5](#c5)に鳴り響く音楽を、鍵一は知っていた。絵具の薫りを吸い込めば、古代の名曲が潮騒のように耳を打った。♪夢の浮橋

「ぼくがパリ留学中に伺った話では……1811年、巨大な彗星の現れた年に、『夢の浮橋』が演奏されたようなのです。おそらくはベートーヴェンや……」
「そうか。楽譜をヨーロッパ中にばら撒いたからか」と、叔父は話の二手先を行く。 「古くからの慣習だそうで」急いで鍵一が補足すると、 「すごいよね。演奏後は楽譜をちりぢりに割いて、後世へ密かに受け継いで。復活上演のときにはまた、世界中から楽譜を集めなくちゃいけないんでしょう」と、陶芸家の理解も早かった。古美術商は前のめりに笑った。 「誰だか知らんが、なんとも壮大なジグソーパズルを仕組んだもんだな」 「そのピースがひとつ、日本に流れ着いたとしてもおかしくないわね」 「長崎の古い家の土蔵を片ッ端から開けてみれば、楽譜だの楽器だの出てくるかもな」 「どう、鍵一さん?」 「そうですね、シーボルトやオランダの人々が、『夢の浮橋』の楽譜を持って来ていたとしたら……」 縁側の猫耳がヒョイと動いて、推論の集積をおもしろそうに眺めている。前足を小さく上げ、なにか招くような仕草で一同に福を与えると、猫は陽だまりのなかへ丸くなった。 
「それにしても……この花は何でしょう」
先程から気になっていた事を、鍵一はようやく言い出した。彗星の輝きを享けて、奏者たちの足元に揺れるコスモス。19世紀の旅を思い返してみても、鍵一には心当たりがなかった。叔父も首をかしげた。 「日本では秋の風物詩なんだが、ヨーロッパでは夏の花だよな」 すると、登与子が目を輝かせた。「コスモスって、もとはギリシャ語ですよね」 手近な五線紙を取って立ち上がると、ピアノの譜面台に置いてすらすらと書きつけた。 「コスモスの綴りは、KosmosもしくはCosmos……。これは、ギリシャ語で『調和』や『秩序』、『宇宙』を意味する言葉。鍵一さん、たしか『夢の浮橋』は、ピタゴラスの天球音楽説[※6](#c6)から着想された曲だよね?」 「はい、宇宙に響く音楽が、この世に調和をもたらすそうで……」言い掛けて、はたと気づいた。 「調和……まさに『コスモス』ですね……!」 「じゃ、この花は」 登与子の手がふわふわと描いてゆく。五線紙にやわらかな花が咲いた。「『夢の浮橋』に縁があるのね。ちなみに、わたしの誕生花もコスモス」 叔父と顔を見合わせながら、鍵一は思わずにはいられなかった。すべての物事は輪を描いて繋がっている。輪廻転生思想[※7](#c7)、バウムクーヘン[※8](#c8)、あるいは、楽典で示される五度圏[※9](#c9)のように。 
つづく
◆ おまけ
音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました
日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪ 第1話のみ、無料でお聴きいただけます。ピアノ独奏曲『夢の浮橋変奏曲』
鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。2023年5月27日(土)、本作の音楽朗読劇とともに抜粋版が演奏されます。平行弦のグランド・ピアノ
19世紀半ば過ぎまで、チェンバロやピアノの弦は通常、すべての弦が平行に張られていました。現代のピアノはほぼすべてが「交差弦」を採用しています。各声部の音色をクリアに保持できる平行弦の特徴は再評価されつつあります。ペダル式のエラール・ハープ
ピアノ・ハープ製造者のセバスチャン・エラール(1752-1831)が制作したハープ。1811年にセバスチャンは最新式のダブルアクション・ハープを発表し、これが現在のハープの原型となりました。largamente(ラルガメンテ)
音楽用語で「ゆったりと、豊かに、たっぷりと」の意。- 古代ギリシャの哲学者ピタゴラスが提唱した説。「天体(惑星など)はそれぞれ固有の音を発しており、宇宙全体(=天球)が音楽を奏でている」という思想。この思想は後世に受け継がれ、プラトン、プトレマイオス、アウグスティヌス、ケプラーなど、多くの哲学者・天文学者が「天球音楽」を基とした自説を展開しました。
プロフェッサーB氏と輪廻転生のエピソード
第49話『プロフェッショナルになるためのB級3ヶ条♪』をご参照ください。バウムクーヘン
ドイツの伝統菓子。ドイツ語でバウム(Baum)は「木」、クーヘン(kuchen)は「ケーキ」。五度圏
長調と短調の主音を完全5度の間隔で並べた円表。 SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』(ふるたみゆき)TOP