前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は、恩師より音楽史研究のミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。フランツ・リストの勧めでサロン・デビューを目指すさなか、カール・チェルニーから贈られたのは、秘曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。興味を惹かれた鍵一は、楽器製作者ピエール・エラールとともに『夢の浮橋』の復活上演を志す。

膨大な資料を携えて現代に戻ると、鍵一は叔父のすむ京都貴船[※1](#c1)で作曲に打ち込んだ。ピアノ曲『夢の浮橋変奏曲』[※2](#c2)の初稿が完成すると、京都は春を迎えていた。3月、友人の陶芸家・登与子とともに西陣[※3](#c3)を訪れ、鍵一は重要な事実を知る。

西陣探訪―秘曲の面影(Ⅳ)♪

「鍵一君のお師匠さん……B先生が養子に入られたお家は」登与子が身を乗り出した。「なにか、特別なお仕事をされてたんですか。ひと昔前のお話とはいえ、家業を継ぐために養子だなんて。けっこう大変な事ですよね」

「漆芸です」 織屋の主人は微笑んだ。障子に鳥の影が飛んだ。

挿絵

「漆芸というと、漆をつかう技法ですね。塗師※4か……蒔絵師※5かしら」と、さすがに陶芸家は詳しい。隣で鍵一は、塗師と蒔絵師なるものをイメージしてみる。その仕事を間近に見た事はなくとも、
legato
※6に塗り重ねられる漆の飴色や、
sotto voce
※7で撒かれる金粉が思い描かれた。織屋の主人はうなづいた。

「仰るとおり、漆芸もいろいろありますが。『イニシャルB』のお家では、昔から美術品の修復をしておられます。金箔の剥がれた仏像ですとか、割れた茶碗ですとか。全国のお寺や神社からも、宝物が持ち込まれるんですよ」 「漆で直せますか?」 「漆は天然の接着剤ですから、なんでもくっつけられるんです。漆を塗ってくっつけて、継ぎ目を金や銀で埋めれば、綺麗によみがえらせる事ができます」 鍵一には思い当たる品があった。恩師の愛用するポーリッシュ・ポタリー[※8](#c8)に、修復の跡は確かに煌めいていた。欠けたところを金で継いで、割れる前よりむしろ面白いものになったという、あのポーランド土産である。 「漆芸のお家は、その後どうなったんでしょうか」と聞いてみた。 「B先生は家業を継がなかったんですよね……ショパン・コンクールで優勝されたあと、今のぼくと同じ歳頃にはもう、ヨーロッパを飛び回って演奏活動をされていましたから[※9](#c9)」 「家業は今も続いておられます。『イニシャルB』のお家でいろいろ相談されて、ご親戚がうまいこと継いでくれはったようで」 「ちなみに、どこのお店ですか?」と、これは登与子が尋ねた。織屋の主人はやんわりと口をつぐんだ。代わりに、優美な手つきで煎茶を注ぎながらこう言った。 「音楽の才ゆえに家業を継がへんかった事を、B先生は悔やんでおられたようで。今も公にしておられませんね。京都でも、ごく一部の人しか知らへん事やと思います」 登与子がそっと鍵一を見遣る。うなづいて今、鍵一の胸中には恩師の来歴が、輝きながら継ぎ合わされていた。 出身地不詳のプロフィール。京都の漆芸家との養子縁組。西陣で誂えた羽織袴と手袋。愛用のポーリッシュ・ポタリー。19歳でリリースした自作自演のピアノ曲集『金継ぎ(KINTSUGI)』[※10](#c10)……

♪プロフェッサーB:ピアノ曲集『金継ぎ(KINTSUGI)』

挿絵

つづく

◆ おまけ