**パリ市庁舎前のラマルティーヌ
Lamartine devant l'Hôtel de Ville de Paris le 25 février 1848 refuse le drapeau rouge アンリ・フェリックス・エマニュエル・フィリポト-Henri Félix Emmanuel Philippoteaux (1815–1884)による油彩画 1848年 2月 25日、臨時政府を代表してパリ市庁舎前で共和制を宣言するラマルティーヌと民衆の様子を描いた作品。ラマルティーヌは此処で恐怖や血を連想させる赤旗を国旗として採用することを退け、自由民主主義の精神の象徴である三色旗(トリコロール)をフランス国旗として掲げた。
アルフォンス・ド・ラマルティーヌ Alphonse de Lamartine (1790 - 1869)
フランス・ロマン派を代表する詩人・著作家。 マコンの貴族に生まれ、王政復古期に一時、軍に籍を置いたが、後に外交官となり、1825 年から 1828 年までイタリアに駐在。 1820 年に『瞑想詩集』Méditations poétiques を、 1830 年に『詩的で宗教的な調べ』Harmonies poétiques et religieuses を発表。フランツ・リスト(1811-1886)はこの詩集からインスピレーションを得て1853年に全10曲から成る同名の曲集を完成させた。 7 月革命を機に政治活動を開始し、ブルジョワ共和派として1848 年の 2 月革命で臨時政府の外務大臣に就任。同年 12 月の大統領選挙ではルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン 3 世)と争って敗れ、1851 年のクーデターで政界を引退した。
ショパンはパリに暮らしながら、二月革命よりも、そのひと月後に連鎖的に起こったプロイセン統制下のポーランド・ポズナン大公国の蜂起と存続に関心を抱き、祖 国の再興を目指してポズナンに向かったポーランドの友人たちの安否を気遣っていたようです。そんなショパンとは対照的に、サンドは労働者や農民を擁護する社会主義運動に積極的に加わり、作品を通して改革への熱意を表明しました。ノアンの田園地帯で少女時代を過ごしたサンドにとって、農村は身近な存在でしたが、パリの社交サロンを舞台に一般大衆を意識することなく活動してきたショパンにとっては、芸術家としての自分を死の直前まで 支え続けてくれたパリの上流階級と対立して、それまで接点のなかった労働者や農民での 視点から社会生活を考えることは不可能であったことでしょう―このような社会情勢 に対する二人のスタンスの違いは、既に隙間風の吹いていた二人の溝を深めるのに一役買ったといわれています。二月革命の一年後、世界が大きな変換を遂げた時期にショパンはその生涯を閉じましたが、時の流れと共に、彼の作品は国境も世代も階級も越えた、世界 中の人々に愛されるようになりました・・・
二月革命暫定政府メンバー
1848年2月24日
アシル・ドヴェリア Achille Devéria (1800‐1857) **
上:左から右に、ガルニエ・パージェ、マラス、フロコン、クレミュー、労働者アルベルト(アレクサンドル=アルベール・マルタン)、ルイ・ブラン
下:ラマルティーヌ、マリー、デュポン・ド・リュール、ルドリュ=ロラン、アラゴ
フレデリック・フランソワ・ショパン Frédéric François Chopin (1810-1849)
作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。
クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。
ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。