第11回 巴里の日本人(サン=サーンスと日本5)
1.セイロン島へサン=サーンスは「シャルル・サノワ」という偽名を使って正体を隠して旅行をしておりましたが、有名人のことですから、当然新聞などのメディアに肖像画が掲載され、いずれは正体が判明することとなりました。カナリア諸島でお世話になったお礼に、《カナリアのワルツ op.88》を作曲し、現地で知り合ったピアニストに献呈されています。
そして、1890年5月に一度パリに戻りますが、画家の山下清のように一旦身に付いた放浪癖は治りません。パリにつなぎとめる母親はもうおらず、外国からは演奏旅行の仕事が舞い込み、そしてサン=サーンス自身の異国への憧れが強いため、芭蕉宜しく「片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやます[※1](#comment1)」旅立ちます。 [
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1890年頃のコロンボの通り
同年12月、避寒旅行を兼ねて向かった目的地は、なんとイギリス領セイロン(現スリランカ)でした。ピエール・ロティの場合、海軍士官として仕事で世界各地を訪れることができ、その特権を作家活動の題材集めに利用したのですが、サン=サーンスの場合、自由気ままなプライベートな旅行でしたから、お金も時間もかかり、当時かなり珍しいことでした。この旅では、もちろんセイロン島まで実際に足を延ばしたことも重要ですが、客船の中で重要な出会いをします。当時のフランス領インドシナのサイゴンの植物園長として赴任の途にあったルイ・ジャケと、彼に紹介された若い医師フェリックス・ルニョー(1863-1938)でした。ルニョーは既に第7回で名前が出てきた人物ですが、当時はインドのコルカタとセイロン島を結ぶ定期客船の医師として赴任する途中でした。サン=サーンスはいつものようにオランダのダイヤモンド商人「シャルル・サノワ」として乗船し、ジャケとは植物学や天文学の話題で親交を深めたのですが、コロンボに下船する際になって、仲良くなった二人にようやく身分を明かし、ピアノを弾いてみせたのでした※2。1891年2月8日にコロンボからサン=サーンスがルニョーに宛てた手紙において、サン=サーンスは「音楽家だと分かるとピアノを弾かされるのが煩わしい」と身分を偽った理由を説明し、パリに立ち寄った際は気軽に立ち寄るよう述べています※3。同じ手紙の中で、サン=サーンスは「ジャングルは素晴らしい」と感嘆していますが、とはいえ、熱帯気候の湿気の高さに耐えられず、セイロン島の滞在を切り上げ、その代わり帰途のカイロで作曲したのがピアノとオーケストラのための幻想曲《アフリカ op.89》でした。
2.元吉清蔵サン=サーンスはセイロン島滞在に懲り懲りしたのか、と言えばその逆で、東洋への憧れをさらに膨らませたようでした。というのも、1892年3月22日、親友のルイ・ガレから一通の手紙を受け取ります。
『元吉』という日本人と知り合いました[※4](#comment4)。彼は日本の唄をたくさん知っていますので、近いうちにあなたに紹介できれば幸いに存じます[※5](#comment5)。この時、サン=サーンスは実際に元吉なる人物に会ったのでしょうか。残念ながらその後を伝える二人の書簡は1894年まで残っていませんので、先に「元吉清蔵」の紹介を行いましょう。彼は現在の日本においてほとんど知られていません。というのも、彼は若くして異国の地で客死してしまったからです。残念ながら、大きな業績を残す前に歴史の中に埋もれてしまいました。
元吉清蔵は自らの名を「Motoyosi Saizau」と綴りました。Saison(季節)をセゾンと発音し、Paul(人名)をポールと発音することから、清蔵(せいぞう、長音化して「せーぞー」)をフランス人に正しく発音してもらえるよう工夫したのです[※6](#comment6)。修正ヘボン式が生まれるのが1906年ですから、日本語のローマ字表記がまだ一定していなかった時代のことでした。 生まれは1866年の東京でした。そして21歳の1887年に留学のために日本を発つのですが、それまでの経緯は全く分かりません[※7](#comment7)。というのも、この時代、留学生の多くが官費留学生であり、出自がはっきりする人がほとんどであったのに対し、元吉は私費留学生であったからです。私費留学生でも、裕福な家庭の出身であれば名家のことが多く、何らかの記録が残ったでしょうが、何と、元吉はまずアメリカ合衆国に渡り働いて留学資金を貯め、そのままフランスへ留学する苦学生だったのです[※8](#comment8)。外務省外交史料館にはパスポートの発券簿が残されていますが、それによると、 第一三九五号 東京府 元吉清蔵 廿一年二ヶ月 右ハ語学研究ノ為佛國ヘ 明治廿年五月十日[※9](#comment9) [
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1895年頃のレオン・ド・ロニー
とあり、これが日本国内に残っている史料で筆者が現在までに見つけた唯一のものとなります。1891年、パリに旅行しエミール・ギメの求めに応じ報恩講を挙行した僧侶、小泉了諦(1851-1938)の回想録にも元吉の名前が登場します※10。
そして1889年、とうとう元吉はフランスに到着するのですが、当然、日本からの仕送りもない彼はパリで仕事につかなければ生きていけません。そこで見つけた仕事は、以前オペラ《黄色い姫君》の際に登場したレオン・ド・ロニーのアシスタント、東洋言語学校の外国人復習教師の仕事でした。文筆活動、ジャーナリズム活動を志していた元吉にとって[※11](#comment11)、文壇への足掛かりになる天職だったのですが、ここで一つ問題が起きます。ロニーはフランスにおける日本学の祖でありましたが、1870年代から20年たっても彼はまだ一度も日本を訪れたことが無く、その後もありませんでした[※12](#comment12)。つまり、ロニーは自身の日本語の聞き取り、会話能力の不足を補うために日本人を外国人教師として雇っていました[※13](#comment13)。それまでに雇われた人物は幕府や明治政府から派遣された役人で、数年で日本に帰る前提だったのです[※14](#comment14)。それに対し、身一つでやってきた元吉は、帰国するにしてもパリで名を成してからでないと日本でも仕事がありません。いわば背水の陣ですから、来仏時こそ元吉のフランス語はおぼつかなかったものの、現地で生活するうちにどんどん上達していきます[※15](#comment15)。ロニーは元吉のことを脅威に感じ、自身の日本語の運用能力に疑問を持たれては困ると考えるようになったのかもしれません[※16](#comment16)。1893年、ロニーがコレージュ・ド・フランスのポストに立候補しますが、若手研究者に負け落選し、激高したと伝えられます[※17](#comment17)。この際、元吉が誹謗中傷したとのデマが流れ[※18](#comment18)、元吉はロニーと対立し辞職に追い込まれてしまいました[※19](#comment19)。 3.元吉とサン=サーンスさて、元吉は大ピンチ。有力者に掛け合って、危機を打開しようと運動を行います。その中で手紙を送った一人がサン=サーンスでした。現在サン=サーンスのアーカイブに残っている唯一の日本人の手紙になります※20。
ダンフェール・ロシュロー通り18番地の2
パリ 1893年12月9日[文学・芸術中央協会]
[ヴィヴィエンヌ通り36番地]拝啓
御無沙汰致しております。数日前、あなたと少しお話しさせて頂きたいと御宅に伺ったのですが、御旅行に発たれた後でした。最近、私は新任の文部大臣であるスピュレール氏に請願したいことがあります。ルイ・ガレ氏にスピュレール氏のことを御存知かどうか尋ねましたが、残念ながらそうではありませんでした。そしてガレ氏は、あなたならスピュレール氏と良くお付き合いされていると教えて下さいました。このような次第で、スピュレール氏に少し私の考えをお話しするために、一筆あなたの推薦状を賜りたいと願った訳です。もし御親切にもスピュレール氏宛に推薦状を書いて下されば、これ程有難いことは御座いません。
あなたからの御親切な御返事を期待して、あなたへ尊敬の念と、感謝の気持ちを捧げます。あなたの謙虚で忠実な僕より。元吉清蔵※21
結局元吉に対する決定が覆され、復職することはありませんでしたが、上記の手紙にあるように、ガレがサン=サーンスのことを紹介するなど、すでにパリで有名になっていた元吉に対して手を差し伸べるフランス人の友人もおり、この事件をきっかけに人脈を広げた面もあるかもしれません。
とはいえ、定職が無くなってしまった元吉、それからは筆一本で生活しなくてはなりません。1894年には複数回にわたって講演会を行ったり、新聞雑誌に頻繁に日本事情に関する寄稿を行い、健筆をふるいます[※22](#comment22)。その中には文学作品もあり、一つは前回ご紹介したジュディット・ゴーティエとの共著による『吉原の生ける花々』(1894年8月28日から連載開始[※23](#comment23))があり、元吉の死後ジュディットによって完成され、『愛の姫君たち』として1900年に出版されました[※24](#comment24)。それに対し、1894年8月から9月にかけて連載した『小さなお姫様の冒険』は翻訳小説で、読んでみると『住吉物語』の仏訳だったのです[※25](#comment25)。『住吉物語』とは鎌倉時代前期に成立した継子いじめの物語ですが、原型自体は『源氏物語』や『枕草子』中にも言及されており、それだけ人々に愛読されたことが分かります。よって、元吉も日本文学の本質をフランスの人々に伝えるためにこの物語を選んだのでしょう。 なぜ『住吉物語』の翻訳を取り上げたかというと、実はサン=サーンスがこの連載を読んでいたからなのです。1894年8月30日のサン=サーンスよりルイ・ガレ宛の手紙には以下の文章があります。 ジョゼフは私に日本の戯曲のことを話してくれました。彼は熱意に溢れておりましたので、あなたのご希望通りそのやる気を鼓舞するようにします。 元吉は目下、新聞『ル・タン』に地方色があり変わった味わいのある小説を連載していますが、残念なことに雨のように[ひどく]退屈です。このようなものを読んで喜ぶのは我々のような種族の人間しかおりませんでしょうなあ。私にとっては御馳走ですが[※26](#comment26)。ジョゼフは前回登場したジョゼフ=ルイ・クローズのことです。ガレは、元吉のパリ文壇での活動を支援するために、ジョゼフと元吉との三人で日本物の戯曲※27の製作を計画していました※28。そして偶然とはいえ、『万葉集』に『住吉物語』とサン=サーンスが江戸時代より前の日本の古典文学に親しんでいたとは驚きです※29。
ここまで話が来ると、サン=サーンスと元吉とは実際に会ったのか気になるところです。1894年9月28日のルイ・ガレよりサン=サーンス宛の手紙において、ガレは元吉とサン=サーンスとを引き合わせるための会食をセッティングしています。 私はあなたにこの日本趣味の作品を読んで聞かせたいのです。第二幕は美しいけれども残忍であったりします。これは非常に骨の折れる仕事でした。とはいえ、困難の中でも喜びを感じ、とりわけ頭の良いトレーニングとなりました。今から、来週で私の家に夕食に来れそうな日をお選び下さい。その日に元吉を招きましょう。私は戯曲を朗読し、ジョゼフはこの会の取材を行うでしょう。これは日欧舞台芸術史において非常に興味深いものとして必ずや評価されることでしょう[※30](#comment30)。残念なことに、この手紙に対する返事や、後日談を記した書簡を見つけることはできませんでした。しかし、このように段取りをつけているガレの熱心さを見ると、実際にサン=サーンスと元吉が面会した可能性は高いと考えられます。
4.晩年の元吉元吉は執筆、講演活動やその営業のための人脈を広げる付き合いで忙しく、詩人、編集者のギュスターヴ・カーン(1859-1936)宛の1895年4月の手紙においても、「現代日本の生活を紹介する私の未発表の小説を貴誌において掲載して頂けませんでしょうか」と綴っており※31、無理がたたったのでしょうか。1895年5月12日にラリボワジエール病院に入院します。この病院の院長をガレが長年務めていたので、その計らいによるものでしょう。とはいえ、入院してしまうと執筆できなくなり、収入が途絶えてしまいました。パリの南、ダンフェール=ロシュロー通り(現アンリ・バルビュス通り)のアパルトマンからは追い出され、書きかけの原稿は差し押さえられてしまいました※32。そして快復の願いも空しく、肺結核により6月22日の夜10時ころ亡くなります※33。多くの追悼記事が新聞や雑誌に掲載されたことから、多くのフランス人に愛されたことが分かります。
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元吉清蔵の手紙(筆者蔵)
最後に、追悼記事に引用された元吉の詩を紹介致しましょう。もちろんオリジナルはフランス語で書かれており、詩法に則り脚韻を踏んでいますが、まるで自分の運命をすでに悟っていたかのようです。 もし私を祖国から引き離すことができたとしても、 香気に満ちた大地を朗らかな太陽が照らす祖国、 私を落胆させることはできないだろう。 私は心静かに生きるだろうし、 この異国の地から離れることはないだろう、 科学に打ち勝つまでは。 この地に骨を埋めなければならないとしたら、それも良かろう。 あちこちに花咲く緑の丘が見えないだろうか、 薔薇色の雪が降るように林檎がたわわに実るのも。 そして月が真っ赤に光り輝くのも。 一日中、どこにいても賢者は休んでいる。 これが至高の眠りの幸せなのだ[※34](#comment34)。参考文献
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LABROUSSE, Pierre (éd.), LanguesO 1795-1995 ; Deux siècles dhistoire de lÉcole des langues orientales, Paris, Hervas, 1995, 477 p.
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(ミヒャエル・シュテーゲマン『大作曲家 サン=サーンス』西原稔訳、東京:音楽之友社、1999年。)STOULLIG, Edmond, « La semaine théâtral », Le Monde artiste, 6 février, 1898, p. 86-87.
織田萬「レオン・ド・ローニー」、『国際知識及評論』、第17巻第6号、1937年、65-68頁。
桑原博史(校訂・訳注)「住吉物語」、『中世王朝物語全集〈11〉雫ににごる・住吉物語』、東京:笠間書院、1995年。
小泉了諦『修養逸話六十六年夢物語』、京都:顕道書院、1916年。
松原秀一「レオン・ド・ロニ略伝」、『近代日本研究』、第3巻、1986年、1-56頁。
注釈
[^2]: Jean BONNEROT, Camille Saint-Saëns ; Sa vie et son œuvre, Paris, Durand, 1922, p. 146-147.
[^3]: フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
[^4]: 元吉は1892年より『新評論』に寄稿を始めるので、同誌に寄稿していたガレとの関係が考えられます。
[^5]: フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。現在はフランス国立図書館電子アーカイブ「gallica」にて閲覧可能。
[^6]: ちなみに「ぞう」を当時の歴史的仮名遣いで表記すると「ざう」となり、フランス語の副母音字と発音規則が似ています。
[^7]: Saizau MOTOYOSI, Le Bouddha et le Bouddhisme, Paris, L. Sauvaitre, 1890, p. 1.
日本において仏教雑誌の編集者であったと肩書きがありますが、あくまで自称のため、真偽のほどは分かりません。ロニーが日本の仏教に関心があったため、就職に有利なように名乗った可能性もあります。
[^8]: Anonyme, « Nécrologie », Revue Française du Japon, Volume 4, 1895, p. 358.
[^9]: 海外旅券勘合簿、本省之部、第三巻、外務省外交史料館蔵。
海外旅券下付(附与)返納表進達一件(含附与明細表)、明治廿年本省渡、外務省外交史料館蔵。
[^10]: 小泉了諦『修養逸話六十六年夢物語』、京都:顕道書院、1916年、77、79頁。
小泉は元吉を通訳とし、報恩講に先立ち5日間ギメに親鸞(1173-1263)について説明を行ったとあります。
[^11]: 元吉は1894年1月22日の文部大臣ウジェーヌ・スピュレール宛の手紙で、Publiciste(評論家、記者)と名乗っています。フランス国立公文書館所蔵。
Documents personnels de Motoyosi Saizau conservés aux Archives Nationales, F/17/23446.
[^12]: 自他ともに認める東洋学者であるロニーであっても、極東に行くチャンスを生涯得ることができなかったことを考えると、当時のサン=サーンスのセイロン旅行がいかに貴重なことであったかが分かります。
[^13]: 織田萬「レオン・ド・ローニー」、『国際知識及評論』第17巻第6号、1937年、66-67頁。
[^14]: Pierre LABROUSSE (éd.), LanguesO 1795-1995 ; Deux siècles dhistoire de lÉcole des langues orientales, Paris, Hervas, 1995, p. 323.
元吉の前任者は初代、栗本貞次郎(1868-1872在任)、今村和郎(1873-1878在任)、松波正信(1887-1889在任)でした。栗本は栗本鋤雲(1822-1897)の養子で徳川昭武(1853-1910)の1867年のパリ万博使節団の一行として渡仏、今村は岩倉具視(1825-1883)の岩倉使節団の随行として渡欧しそのままフランス滞在となり、松波は大蔵官吏でした。(松波正信の漢字表記はフランス公文書館所蔵の東洋言語学校の資料の署名にて確認。)
Documents personnels de Masanobu Matsunami conservés aux Archives Nationales, F/17/22990.
[^15]: とはいえ、元吉の発音には訛りが残っていたことが複数の回想から知られます。フランス語「ジャポン」を「ヤパン」とオランダ語式に発音していたことから、日本において蘭学の素養があったと考えられます。
Jules CLARETIE, La Vie à Paris (1895), Paris, G. Charpentier et E. Fasquelle, 1896, p. 85.
[^16]: 元吉の他にも研究者との衝突は絶えず、癖のある人物だったことが分かります。
松原秀一「レオン・ド・ロニ略伝」、『近代日本研究』、第3巻、1986年、48-49、53頁。
[^17]: Bénédicte FABRE-MULLER, Pierre LEBOULLEUX, Philippe ROTHSTEIN, Léon de Rosny ; De lOrient à lAmérique, Villeneuve dAscq, Septentrion, 2014, p. 161.
この時選ばれたのはエドゥアール・シャヴァンヌ(1865-1918)で、彼は政府の代表団の一員として4年間の北京滞在歴があり、フランスらしい実力主義、合理主義的な選考結果だと思われますが、極東への滞在歴のないロニーにとっては痛いところを突かれたのかもしれません。
[^18]: 1893年6月30日の元吉より在仏日本公使館のT. Kato、おそらく加藤恒忠(1859-1923、公使館勤務1892-1897)宛の手紙。フランス国立公文書館所蔵。フランスの国立学校に関する案件のため、元吉、加藤両者の書簡はフランス語で書かれています。
Documents personnels de Motoyosi Saizau conservés aux Archives Nationales, F/17/23446.
[^19]: 日本人で初めての常設国際司法裁判所判事を務めた法学者の織田萬(1868-1945)は、フランス留学時の1898年の一年間、ロニーの下で外国人復習教師を務め、前掲書においてロニーを手厳しく批判していますが、おそらく元吉も同じような体験をし、悔しい思いを抱いていたことでしょう。
[^20]: これまでに言及した、林忠正、西園寺公望の手紙は残っていません。また管見の限りでは、ガレやデュラン親子など、サン=サーンスと特に親しかった友人との書簡にも彼らの名前の言及はありません。
[^21]: フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
[^22]: 筆者が調査した限りで判明した元吉の作品、活動履歴は以下を参照。
Mitsuya NAKANISHI, Saint-Saëns et le Japon ; Considérations sur le japonisme dans lœuvre du compositeur, thèse pour obtenir le grade docteur de lUniversité Paris-Sorbonne, 2016, p. 59-60.
[^23]: Judith GAUTIER et Saizau MOTOYOSI, « Les Fleurs vivantes du Yosi-Wara », Le Journal, I : 28 août, II : 30 août, III : 3 sept., IV : 7 sept., V : 21 sept., VII : 6 oct., 1894.
[^24]: Judith GAUTIER, Les princesses damour (Courtisanes japonaises), Paul Ollendorff, 1900, 298 p.
[^25]: Saizau MOTOYOSI, « Les aventures de la petite himé », Le Temps, 28-31 août et 2, 4-6 septembre, 1894.
[^26]: 手紙の写し(オリジナルは消失)。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。
[^27]: 残念ながらテキストは残っていませんが、劇場の公演記録や元吉の講演活動からみて加藤清正(1562-1611)に関する作品であったようです。元吉の話をもとにガレが「ルリカラ」というペンネームを用いて執筆しました。
Edmond STOULLIG, « La semaine théâtral », Le Monde artiste, 6 février, 1898, p. 87.
[^28]: 1894年8月29日のルイ・ガレよりサン=サーンス宛の手紙。フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。現在はフランス国立図書館電子アーカイブ「gallica」にて閲覧可能。
「日本人はかつてないほど人気者です。よって、元吉フォーエバー!」とまでガレは書き記しています。
[^29]: ジュディット・ゴーティエが江戸時代の歴史風俗など、どちらかというと大衆的な題材に興味を持ったことと比べてみても、サン=サーンスの日本趣味は当時のフランスのジャポニザンの間でも異質なことが分かります。
[^30]: フランス、ディエップ市立メディアテック・ジャン・ルノワール、サン=サーンス資料部所蔵。現在はフランス国立図書館電子アーカイブ「gallica」にて閲覧可能。
[^31]: 筆者所蔵。引用部分は書簡冒頭。
[^32]: Jules CLARETIE, op.cit., p. 87.
[^33]: Anonyme, « Motoyosi-Saigan [sic], Lodyssée dun lettré japonais – De Tokio à Paris – Un rêve – Mort à lhôpital. », Le Matin, 24 juin, 1895, p. 2.
[^34]: Pierre SANDOZ, « La semaine artistique (lettres et beaux-arts) », Le Monde artiste, 30 juin, 1895, p. 353.