前回までのあらすじ
悩める18歳のピアニスト・鍵一は恩師から謎めいたミッションを授けられ、1838年のパリへとワープする。19世紀パリの人々との交流から、鍵一は多くを学ぶ。リストの勧めでサロン・デビューをめざす最中、チェルニーから贈られたのは、幻の名曲『夢の浮橋』の楽譜の一部であった。数千年にわたり受け継がれて来たという幻の名曲の謎を探りつつ、鍵一は『夢の浮橋変奏曲』※1の作曲に取り組む。現代日本に一時帰国した鍵一は、京都貴船※2の叔父のアトリエに身を寄せた。古都の風景に19世紀パリの思い出を重ねつつ、創作の日々が始まる。
ドイツ・アンティークの夢♪
「このティーセットは実に好いマイセンなんですよ、俺が未だ青二才でサザビーズ※3の使いッ走りをしていた時分にね、当時の……」と叔父が勢い込んで話し出した途端に電話が鳴った。紅茶の湯気が雪見障子を湿している。美術商が1オクターヴ高い声で「お世話様でございます、ええ、先日の?伊万里が?」などと廊下を遠ざかって行くのを聴きながら、鍵一は仕事を終えた調律師と差し向かいでテーブルに腰掛けた。
覚束ない手でドイツ・アンティークの名品を取って見れば、19世紀パリからル・アーヴルへの旅中、一等客室で出されたカップに似ている。[※4](#c4)調律師は表情ひとつ変えずに、薫り高い紅茶をゆっくりと啜った。 「すみません、忙しない叔父でして」 「……いいえ」 「……」 「……」 「19世紀のものでしょうか」 「……製作年代は18世紀かもしれません。ブルー・オニオン[※5](#c5)ですから」 「青い玉ねぎ、ですか?」 「アウグスト強王の死後に編み出された技法です。中国の柘榴模様を真似たとか」 「アウグスト強王……?[※6](#c6)」 「大航海時代の終焉にふさわしい品と思います」 噛み合わない会話を食みながら、鍵一はこの調律師との対話の仕方についてすばやく頭を巡らせた。腹の底の読めない相手から言葉を引き出す術を、鍵一は19世紀の『フランス・ピアノ界のエトワール』こと、シャルル=ヴァランタン・アルカン氏[※7](#c7)との対話から学んでいた。相手のリアクションが芳しくなくても、粘り強く話し続けること。相手の関心がわずかでも見えたら、すかさずその水脈を掘ること。相手が話し出したら、こちらもトーンを合わせること。 
「マイセンは……ドイツの老舗の磁器メーカーですよね」
「ええ」 「お好きですか」 「嫌いではありません」 「ぼくもです」 「……」 「ぼくのピアノ……先ほど調律してくださったベヒシュタイン・ピアノも、ドイツのメーカーですよね」 「……」 「そういえばパリに留学中、ドイツ出身の音楽家の曲についても勉強したんです。F.ヒラーという、19世紀パリで活躍された音楽家……ショパンさんやリストさんとも親交の深い方で、『博学のヒラー』という異名を[※8](#c8)」 「正確には『調整』と『調律』です」 鍵一をやわらかく遮ると、相手は tranquillo [※9](#c9)に続けた。 「パーツに不具合がないか点検し、最適な状態を維持するのが『調整』。平均律に合わせて音を整えるのが『調律』。調律の工程では、19世紀後半に造られたピアノならではの音色を保持するため、モダン・ピアノとは異なる手心を加えています」 鍵一は深くうなづいて、調律師の言葉を心の手帖に書き留めた。 「ありがとうございます。あれはやはり19世紀のピアノなんですね。どうりでフランツ・リストさんの曲がよく鳴るはずです」 「お言葉ですが、坊ちゃん。私はそうは思いません」 「?」 「リストの音楽は19世紀という時代や、特定のピアノ・メーカーに留まるものではなく、時代や楽器を超えて未来に永く響くものだと思います。19世紀のベヒシュタイン・ピアノだからフランツ・リストの曲がよく鳴る、というのは、少々短絡的に思われます」 「……すみません」 「謝ることはありません。坊ちゃんと私の考えが異なるという、ただそれだけの事ですから」 会話が途切れた。ひんやりした対話とは裏腹に、鍵一はむずむずと嬉しかった。出来ることなら、プロフェッサー・B氏がベヒシュタイン・ピアノをこの家に送って寄越した事情を聴き取りたい。さらに『天球の音楽』と、それを典拠とした幻の名曲『夢の浮橋』について尋ねてみたい。しかしその前に、言わねばならないことがあった。 「あの……」 「……」 「調整と調律をしていただいている間、あなたが仰ったことについて考えていました」 「……」 「『人生の選択はすべて、自らの手で為されるものだ』と。あなたが」[※10](#c10) 「橋本と申します」 「橋本さんの仰るとおりだと思います。B先生の門下を離れるように強く勧めたのは母ですが、それに従ったのはぼくの意思ですから」 「……」 「でも、パリ留学をきっかけに、もう一度B級メソッドを学び直そうと思ったのです」 「……なぜです」 「作曲の必要に迫られたからです」 調律師の表情が動いた。
つづく
◆ おまけ
音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』がオーディオドラマになりました
日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪ 第1話のみ、無料でお聴きいただけます。劇中曲『夢の浮橋変奏曲』
幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、鍵一が作曲するピアノ独奏曲。19世紀の旅で出会った芸術家たちの肖像画を、変奏曲の形式で表した作品です。 実際には、作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいます。 ♪『夢の浮橋変奏曲』制作プロジェクトのご紹介 ♪神山 奈々さん(作曲家) ♪片山 柊さん(ピアニスト)サザビーズ
1744年にロンドンで設立された国際競売会社。本拠地はニューヨーク。19世紀パリからル・アーヴルへの船旅
第30話『構想中!夢の浮橋変奏曲♪』をご参照ください。19世紀の『フランス・ピアノ界のエトワール』こと、シャルル=ヴァランタン・アルカン氏
19世紀に『博学のヒラー』という異名を取ったヴィルトゥオーゾ、F.ヒラー
tranquillo(トランクイロ)
音楽用語で『静かに、心穏やかに』の意。調律師・橋本氏が鍵一に伝えた言葉『人生の選択はすべて……』
第55話『ピアノ調律師の手♪』をご参照ください。 SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』(ふるたみゆき)TOP