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メンデルスゾーン

メンデルスゾーン

Mendelssohn, Felix

1809 - 1847

国内コンサート登場回数: 149回

1809年2月3日、北ドイツのハンブルクにて彼は誕生した。父方の祖父モーゼス(1729~86)は著名な哲学者、父アーブラハム(1776~1835)はドイツ屈指の銀行の創設者という、ユダヤ系ドイツ名門一族の生まれである。1804年よりメンデルスゾーン銀行は交易都市ハンブルクにて投機的拡大を図っていたが、1811年、ナポレオン戦争の煽りを受けて、一家は故郷ベルリンに舞い戻った。 1816年3月21日、両親はフェーリクスを含む4人の子供たちにキリスト教(プロテスタント)の洗礼を受けさせる。1822年には、両親もユダヤ教からキリスト教へと改宗した。ユダヤ人が当時、社会的に成功するためには、改宗が不可欠と判断したからだった。そして、この頃から一家は、「メンデルスゾーン」というユダヤ系の姓に、「バルトルディ」というヨーロッパ系の姓を付加し、「メンデルスゾーン・バルトルディ」というダブルネームを用いるようになる。 フェーリクスは、教養豊かな両親のもと大切に育てられ、まばゆいばかりの早熟の才を開花させた。母レア(1777~1842)から音楽の手ほどきを受けた後、7歳頃からピアノとヴァイオリンを当時一流の教師に師事した。9歳の時に神童ピアニストとして公開演奏会にデビューしている。10歳頃からカール・フリードリヒ・ツェルター(1758~1832)について作曲を学び、コラールの和声付けや対位法を中心に、厳格な作曲技法を身につけた。また、ツェルター主宰のジングアカデミー(市民的合唱協会)に1820年に入会し、パレストリーナやバッハやヘンデルなど、過去の大作曲家の宗教曲を歌っている。同年、ベルリンのマリア教会にて、オルガンのレッスンも受け始めた。1819年終わりから本格的な作品を次々と手掛けるようになり、1823年までに弦楽交響曲12作、協奏曲5作、ジングシュピール4作、その他にも宗教曲、合唱曲、独唱曲、室内楽曲、ピアノ曲、オルガン曲など、100作を優に超える作品を生み出した。1825年、16歳で作曲した《弦楽八重奏曲》(Op.20)や翌年の《夏の夜の夢》序曲(Op.21)は、彼の代表作であるばかりでなく、音楽史上の最高傑作に数え入れられよう。 少年期のメンデルスゾーンはまた、音楽だけでなく、文学や数学、地理や歴史、絵画やスポーツなど、あらゆる分野にわたって高水準の教育を授けられ、幅広い知識と教養を身につけた。自邸には、アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769~1859)やハインリヒ・ハイネ(1797~1856)ら、知識人たちが足繁く出入りし、子供たちとも親しく交わった。メンデルスゾーンは、少年期より旅もよくした。1821年にはツェルターに連れられ、ワイマールのヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)を訪問し、「最良の弟子」と紹介された。1825年、父とのパリ旅行では、ロッシーニやリストらと知り合うとともに、楽壇の大御所ケルビーニから才能を認められた。 1821年には、その後メンデルスゾーン家恒例となる日曜音楽会が始まった。隔週日曜日に開かれたこの自邸音楽会において、メンデルスゾーンは自作をいち早く音にすることができた。通常は彼と姉ファニー(1805~47)のピアノ演奏が中心となり、知人たちのアンサンブルが加わったが、時には宮廷楽士によるオーケストラも雇われた。 公開演奏会でもメンデルスゾーンの作品は1823年頃からベルリンで、1827年頃からはベルリン外でも取り上げられるようになった。1823年には、初の出版作品が発表されている。Op.1~3のピアノ四重奏曲、Op.4のピアノとヴァイオリンのためのソナタ、Op.5~7のピアノ独奏曲、Op.8~9のピアノ伴奏付き歌曲と、ピアノを含む作品の出版が続いた。Op.10のオペラ《カマーチョの結婚》(1825年作曲)は、上演にこぎ着けるまで非常に苦労した上に、1827年の初演が不評に終わったので、彼は大きな挫折を味わった。同じ1827年から4学期、ベルリン大学に在籍し、ヘーゲルの美学講義などを熱心に聴講している。 1829年3月、ベルリンのジングアカデミーにて、弱冠20歳のメンデルスゾーンはバッハ作曲《マタイ受難曲》を約100年ぶりに復活上演し、成功を収めた。この上演により、一般には古めかしいと忘れ去られていたバッハが不滅の大家として蘇ることとなり、音楽史上、画期的な出来事となった。 同年4月にはイギリスを単身訪れ、交響曲第1番(Op.11)や《夏の夜の夢》序曲などの自作を指揮するとともに、ピアニストとして華麗な演奏を披露した。12月にいったん帰郷した後、1830年5月から1832年6月までヨーロッパ全域を巡る大旅行に発っている。ドイツを南下し、オーストリアを通ってイタリアに長期滞在し、スイス、フランスを北上し、イギリスを再訪してからベルリンに戻った。この間、ミュンヘンやヴィーン、パリ、ロンドンなどの大都市では自作の演奏機会を求め、大手楽譜出版社とOp.11~26の出版交渉を進めた。創作の上でも実り多く、旅先の風土に触発されて「スコットランド」交響曲(Op.56)や《ヘブリディーズ諸島》序曲(Op.26)、「イタリア」交響曲(Op.90)などの着想を得た一方で、ルター派のコラールに基づく宗教曲やゲーテの詩による《最初のワルプルギスの夜》(Op.60)など、ドイツ的な作品も多く手掛けた。異国で彼はドイツ人としてのアイデンティティを強く自覚したのであろう。 帰郷後、メンデルスゾーンは、1832年5月に没したツェルターの後任としてベルリン・ジングアカデミーの指揮者の地位に応募するものの、1833年1月の選挙で敗退した。若すぎるという理由のほか、ユダヤ出自が障害になったと推測される。失意とともに彼はベルリンを去るが、5月にはロンドンにて「イタリア」交響曲の初演を、引き続き、デュッセルドルフのニーダーライン音楽祭にて自作とヘンデルのオラトリオ《エジプトのイスラエル人》を指揮し、成功を収める。ニーダーライン音楽祭に彼はその後も何度も招聘され、ヘンデルのオラトリオをいくつも上演したほか、1836年には自作のオラトリオ《パウロ》(Op.36)を初演している。彼はまたイギリスを愛し、生涯に計10回訪問した。 1833年秋、メンデルスゾーンは、デュッセルドルフの音楽監督として迎え入れられた。彼の職務は、同地のオーケストラと合唱を指揮し、また、カトリック教会での音楽を担うことであった。バッハのカンタータやハイドンのオラトリオ、ベートーヴェンの交響曲、モーツァルトのオペラなど、意欲的なプログラミングで挑んだが、素人混じりの演奏団体には限界があった。新設の劇場運営を巡って支配人のカール・インマーマン(1796~1840)と仲違いしたこともあり、彼はより良い音楽環境を求めて転職を考えるようになる。創作の上では、この時期に大作《パウロ》に集中して取り組んだほか、歌曲〈歌の翼に〉(Op.34/2)やピアノのための無言歌〈ヴェニスの舟歌〉(Op.30/6)など、若き作曲家の恋への憧れを窺わせる名曲も生み出している。 1835年秋、メンデルスゾーンは伝統あるライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラの5代目指揮者に就任する。彼はここで、年20回の定期演奏会のプログラミングを行い、練習を付け、指揮棒を振って本番を統率するという、近代的な指揮のあり方を確立した。それまでのライプツィヒでは、コンサートマスターがヴァイオリンを弾きながら要所で合図を送る程度だったので、彼のやり方は革新的だった。彼はまた、演奏会で指揮するだけでなく、ピアニストとして協奏曲や独奏曲を弾き、歌曲を伴奏した。室内楽ではピアノに加えてヴィオラも担当し、まさに八面六臂の活躍であった。オーケストラ団員の社会保障の充実に尽力するなど、音楽組織の近代化にも大きな影響を与えた。芸術的才能と組織運営の両方に長けたメンデルスゾーンは、新しい時代の輝けるリーダーだった。 極めて多忙な演奏会シーズンに対し、夏の休暇の間、彼は作曲に専念するとともに、ヨーロッパ各地に演奏旅行に赴いた。プライベートでは、1836年初夏、指揮に招かれたフランクフルトにて、フランス改革派教会牧師の娘セシル・ジャンルノー(1817~53)と知り合い、翌年結婚した。後に4人の子供に恵まれている。セシルと出会ってまもなくは、歌曲(Op.34/3~4, 34/6)や二重唱曲(Op.63/1,77/1, Op.番号なしの3つの民謡)、ピアノ曲(Op.38/3~6)など、美しい小品を手掛けた。1837~39年頃に室内楽曲(Op.44, 45, 49, Op.番号なしのヴァイオリン・ソナタ)に集中して取り組んだのは、ライプツィヒでの生活が公私ともども落ち着き、気心の知れた音楽仲間とアンサンブルを楽しむ余裕ができたからだろう。大規模な作品としては、ピアノのための協奏的作品(Op.40, 43)や、独唱、合唱、オーケストラのための詩編カンタータ(Op.42, 46, 51)がまず続き、1840年代に入ってから、満を持して完成させた交響曲カンタータ(Op.52)と「スコットランド」交響曲が、彼の名声を確固なるものとした。 1833年にジングアカデミーの指揮者の選挙で敗退した後、メンデルスゾーンはベルリンの音楽活動から遠ざかっていたが、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位1840~1858/61)の強い要請を受け、1841年より同地での仕事を兼務するようになった。当時、列車が開通したこともあり、ライプツィヒとベルリン両都市を頻繁に往き来する生活が始まる。1841年7月から1842年11月までと、1843年11月から1844年4月までは、家族とともにベルリンに移り住んだ。1842年11月22日には、プロイセン音楽総監督に任命される。しかし、プロイセンを一大文化国家にするという王の壮大な構想はなかなか具体化せず、不満を募らせたメンデルスゾーンは、1844年11月にベルリンから完全に退いた。王の命により作曲された作品には、《アンティゴネ》(Op.55)や《夏の夜の夢》(Op.61)など、ポツダム新宮殿における古典劇上演のための劇付随音楽、そして数曲の詩編曲(Op.78, 91ほか)や《ドイツ典礼》など、ベルリン大聖堂聖歌隊のための典礼音楽がある。 ベルリン兼務を始めた頃、メンデルスゾーンはまたドレスデンのザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世(在位1836~54)との結びつきも深めていた。1841年7月1日には、ザクセン王室楽長に任命される。同時期には、ワーグナーもドレスデンで出世をねらっており、2人は互いの存在を強く意識したに違いない。メンデルスゾーンは、晴れがましい活動をおそらくは故意に避け、王の個人的な委嘱にこたえながら、ライプツィヒ音楽院創設に対する支援の交渉にあたった。1843年4月に開校されたライプツィヒ音楽院は、教授陣にシューマンやダーフィト、モシェレスらを迎え、高い評判を得た。メンデルスゾーン自身も作曲とピアノを教えた。 このように、1840年代のメンデルスゾーンは指揮者、演奏家、指導者として多忙を極め、心身ともに疲労を重ねたようだ。1844年にベルリンを去った後、ライプツィヒへと直接戻らず、妻の実家のあるフランクフルトとその近郊の温泉保養地バート・ゾーデンで1年間を過ごしたのは、公の音楽活動からしばらく離れたかったからであろう。この静養中の代表作として、有名なヴァイオリン協奏曲(Op.64)、《6つのオルガン・ソナタ》(Op.65)が挙げられる。 1845年晩夏から、メンデルスゾーンは再びライプツィヒに定住する(この時から没するまでを過ごした住居が、1997年以来、「メンデルスゾーン・ハウス」という記念博物館になっている)。ゲヴァントハウスにも復帰するが、体力的な限界を感じ、それまで彼の代役を務めていたニルス・ゲーゼと仕事を二分した。その一方で、オラトリオ《エリヤ》(Op.70)の作曲に打ち込み、1846年8月、バーミンガム音楽祭にてこれを初演している。ライプツィヒでは、1846年秋からの演奏会シーズンもゲーゼと交替で指揮したが、1847年3月をもってゲヴァントハウスを勇退した。ライプツィヒを理想的な音楽都市に発展させてきたメンデルスゾーンだが、作曲により多くの時間を割きたいと決意したようだ。 それでも、彼の多忙な演奏活動は続いた。1847年4~5月に10回目のイギリス旅行を行い、《エリヤ》の改訂稿を各地で上演したほか、ヴィクトリア女王夫妻臨席の大演奏会や、室内楽演奏会、オルガン独奏会など、過密スケジュールをこなした。疲労を抱えてライプツィヒへと戻る途上、立ち寄ったフランクフルトにて、最愛の姉ファニーの急逝の報に接し、大きな衝撃を受ける。彼女は1847年5月14日、ベルリンの自宅にて日曜音楽会のリハーサル中に突然倒れ、その日のうちに息を引き取ったのだった。意気阻喪した彼は夏、家族とともにバーデン・バーデン、そしてスイスへと療養に出掛けた。雄大な山々を歩き回り、美しい風景を水彩画に描くうちに、少しずつ慰めを得て、作曲を再開する。この時に取り組まれた《3つのモテット》(Op.69)の澄み切った美しさ、弦楽四重奏曲 ヘ短調(Op.80)の激しい感情の表出には、彼の新しい境地が感じとられる。加えて、オラトリオ《キリスト》(Op.97)とオペラ《ローレライ》(Op.98)の作曲も始められたが、これらの大作は未完に遺された。 ライプツィヒに戻ってからも、作曲の続行や出版の準備に意欲を燃やしたが、10月9日に突如発作を起こして倒れた。一時的に小康を取り戻したものの、10月末から危篤に陥り、11月4日木曜日、午後9時過ぎに息を引き取った。最盛期の真只中、38歳の若さだった。直接の死因は脳卒中だが、過労と心的ストレスが重なったと考えられる。11月7日にパウリーナー教会にて行われた葬儀には、1000人以上が参列したという。自宅から教会への葬送の列では、シューマン、モシェレス、ゲーゼ、ハウプトマン、ダーフィト、リーツ、ヨアヒムが先頭を歩み、「葬送行進曲」の通称がある無言歌(Op.62/3)がモシェレスの管楽編曲によって奏された。葬儀後、遺体は特別列車によって搬送され、翌8日、ベルリンの聖三位一体教会の墓地内、両親と姉の傍らに埋葬された。全世界が彼の死を悼み、ライプツィヒ、ベルリン、フランクフルト、ヴィーン、ニューヨークをはじめ、各地で追悼演奏会がしばらく絶えることなかった。

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