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リスト

リスト

Liszt, Franz

1811 - 1886   ドイツ

国内コンサート登場回数: 473回

ヴィ―ンに移住した翌年の1823年、アダムはエステルハージ家での職を辞し、一家はパリに向けて移動を開始した。ミュンヘン、アウクスブルク、シュトゥットガルト、ストラスブルクなどの各都市で演奏会を行いながらパリを目指したその道のりは、およそ半世紀前のモーツァルト親子の演奏旅行を彷彿とさせるものがある。一家のパリ移住の第一の目的は息子をパリ音楽院に入学させることだったが、前年に院長に就任したばかりのルイージ・ケルビーニ(1760-1842)の外国人には門戸を開かないとの方針により、リストは門前払いに遭った。こうしてリストは以降、ピアノを独学で学ぶことになった。しばらくしてリストはピアノ製造業者のエラールから7オクターヴの最新式ピアノを贈呈され、同社と契約を結んだ。その内容はコンサート・ツアーでエラールのピアノを使用する代わりに、エラールが楽器の運送費を負担するというものだった。このエラール社の後押しもあって、リストは1824年から4年の間、イングランド、フランス、そしてスイスを巡る演奏旅行を展開した。作曲家としてのデビューは1824年に出版された《ディアベッリのワルツにもとづく変奏曲》で、当時リストは13歳だった。それは総勢50人にものぼる作曲者の合作で、リストの曲は第24変奏として組み入れられた。また翌年の6月20日、マンチェスター行われた演奏会では、リストのフル・オーケストラの作品、《ニュー・グランド序曲》が初演された(しかし現在ではその曲はリスト自身による管弦楽化ではない、あるいは、少なくとも他人の手助けを大いに得て完成に至ったものと考えられている)。また同年10月17日、14歳の誕生日をむかえる5日前には、パリのオペラ座でオペラ作曲家としてのデビューも果たした。一幕物のイタリア・オペラ《ドン・サンシュ》は、リストが生涯を通して完成させた唯一のオペラである(序曲には先の《ニュー・グランド序曲》が転用された)。また1826年にはリスト個人の記念すべき第一作、《すべての長短調の課題のための48の練習曲》が出版された。リスト自身による《48の練習曲》というタイトルにもかかわらず、実際に創作、出版されたのは12曲のみで、その後も数が増えることはなかった。12曲は調に基づく規則的な配列を成していて、ハ長調を起点に平行短調を加えながら五度圏を逆回りに、すなわちフラット系の調を3度下行で進んでいく。いずれも特定のテクニック問題に焦点を当てる練習のための練習曲で、リストが10代初めにヴィーンで師事したチェルニーのほか、ピアニスト、ピアノ教育者、作曲家として名を馳せていたヨハン・バプティスト・クラーマー(1771-1858)の影響を強く感じさせる。これらの12曲は言うまでもなく、1837年にはピアノの鍵盤を制限なく活用する超人的技巧を要求する第二稿《24の大練習曲》(実際には12曲)の、そして1851年には伝統的な「練習曲」の範疇を大幅に超えるあのエポックメーキングな《超絶技巧練習曲》として世の中に送り出されることになる最終稿の初稿である。1827年8月、イングランドの演奏ツアーから戻った直後、父親のアダムが亡くなった。当時若干15歳の少年リストにとって、この死はあまりにも早かった。リストは演奏会ツアーはもちろんのこと、音楽家としてのキャリアから引退しようと真剣に考えた。実際1830頃までのおよそ3年間のリストの消息についてはほとんど記述されることがないが、ジェラルディン・キーリングの調査によって27年から30年までの間にリストが度々演奏会に出演していることが明らかにされている(Keeling 1986)。共演者にはアンリ・ベルティーニ(1798-1876)、ポーランドのアルベール・ソヴィンスキ(1805-80)といった若手のピアニスト兼作曲家の名前があり、なかでもリストより一歳年上のドイツの名手ルードヴィヒ・シュンケ(1810-34)とは頻繁に同じ舞台に立っていた。にもかかわらず1828年、パリで奇妙な噂が囁かれた。10月23日付のパリの新聞『ル・コルセール』は、前日に17歳の誕生日をむかえていたリストの死亡を伝えたのだった。その3日後、『ラ・コディティエンヌ』紙が直ちにリストの消息を伝えて人々に安堵を与えたが、この時期父の死の影響で体調を損ねていたとする定期刊行紙もある(『オプセルヴァトゥール・デ・ボザール』)。そのようななか、1830年、パリにおいて7月革命が勃発した。この動乱に激しい衝撃を受けたリストは、4頁のスケッチを書き記した。そこには「交響曲」のタイトルのほか、「7月27、28、29日、パリ」の日付、構想のメモ、それにわずかな譜が記されている。このいわゆる《革命交響曲》は、ベートーヴェンの《ウェリントンの勝利》Op.91をモデルにしたと指摘されることもあるが、若干4頁の「スケッチ」は、実際には言葉による単なる殴り書きとでも表現すべきもので、それが作品として完成するには程遠いのが現実だった。しかしここで重要なのはリストがオーケストラ作品創作の意図をすでに18歳の時点で抱き、その後も計画遂行のために繰り返し奮闘を続けていったということだろう。事実これらの構想は1850年代になって、交響詩の一部として結実することになるのである。この革命の年の12月5日、パリの音楽界にはもう一つの革命が起こった。ベルリオーズ(1803-69)の《幻想交響曲》初演である。この初演でいち早くベルリオーズの才能を確信したリストは、この並外れて難解で独特な作品のピアノ編曲に取り組んだ。そしてベルリオーズの作品をできる限り多くの人々に知らせるという目的のもと、リストは編曲譜出版の費用を自ら負担し、1834年11月にヴィーンのシュレジンガー社から出版させるに至った。実際、初演からほぼ12年後の42年10月になるまで、パリ以外のオーケストラで演奏されることのなかった《幻想交響曲》は、リストの編曲スコアを通して多くの音楽家たちに知られるようになっていった。その一例は、リストの編曲譜を用いて書かれたシューマン(1810-56)の「ベルリオーズ《幻想交響曲》」の分析的批評(1835年、『音楽新報』掲載)である。オリジナルのスコアを見ずに、これほど大々的な批評を書いてみせたシューマンの音楽的洞察力には驚かされるが、同時に、そのシューマンが頼りにしたリストのピアノ編曲譜がどれほど精緻に作られたものであったかにも注目せずにはいられない。ベルリオーズの斬新な管弦楽書法、そして音楽と詩的なものとの融合の理念は、その後のリストの創作に大きな影響を与えてゆくことになる。しかしリストが芸術家として影響を受けた人物はベルリオーズだけではなかった。1831年に初めて耳にしたニコロ・パガニーニ(1782-1840)の超絶技巧とその効果もまた、演奏家、さらには作曲家としてのリストに決定的な影響を与えることになった。リストはパガニーニがヴァイオリンでやってみせた技をピアノの楽器でも成すべく、以後「毎日4-5時間(3度、6度、オクターヴ、トレモロ、反復、カデンツァ等々)の練習」(1832年5月2日付、ピエール・ヴォルフ宛の書簡)に励むようになった。リストが20代を過ごした1830年代のパリは、間違いなくヨーロッパ文化の中心地だった。以前は貴族階級に限られていたサロンには、詩人、作家、画家、音楽家などあらゆる領域の一流芸術家たちが集い、互いに刺激を与え合った。そこには文学者のシャトーブリアン、デュマ、ゴーティエ、ジラルダン、ハイネ、ユゴー、サンド、また音楽家のアルカン、ベッリーニ、ヒラー、マイヤーベーア、ロッシーニなどが出入りし、やがてリストもその華やかな社交界の一員となった。そして21歳の1832年末、リストは7歳年上のマリー・ダグー伯爵夫人(1805-76)と出会った。44年に関係を解消するまでに、二人の間にはブランディーン(1835-62)、コジマ(1837-1930)、ダニエル(1839-59)の3人の子供が生まれている(ダグー夫人は1835年に伯爵と離婚したが、リストと婚姻関係を結ぶことはなかった)。また1830年代初頭、リストは芸術・学問・産業の三位一体の上に成り立つ新しい社会秩序を唱えるサン=シモン主義に傾倒し、その後、リストの美的価値観の形成に極めて大きな影響を及ぼすことになるフェリシテ・ド・ラムネー神父(1782-1854)と出会った。彼らとの接触から、音楽が指導的役割を果たす革命社会の教義を見出し、芸術は社会的・宗教的使命を持つという確信を持つに至ったリストは、1835年初夏、6週にわたって『ガゼット・ミュジカル』誌に大々的なエッセイ、「芸術家の立場と彼らの社会的地位について」を掲載した。そこで展開した、音楽の使命は社会の芸術を高めることにあるという考えは、当時多くの音楽家の共感を得た。30年代のパリはヴィルトゥオーソ・ピアニストたちが華やかな活動を展開した時期でもあった。ピアニストたちの技の競い合いが頻繁に開催され、また公開演奏会ではそうしたピアニストたちよる連弾が度々披露された。ピアノ産業が拡大し、家庭への普及が急速に進んだ。より大きく、そしてより良く改善された最新型の楽器が毎年のように発売された。リストもピアノの楽器に秘められた大いなる可能性に胸を膨らませ、オーケストラにも匹敵するその効果と表現能力を礼賛した――「エラールの立派で堂々としたサロンに、そして力強さと柔らかさという通常相入れない二つの特性を同時にもたらすエラールのピアノに称賛を。・・・わたしのピアノでもってオーケストラを圧倒する効果、・・・わたしは他のどの楽器でもそのような効果を生み出すことはできないと感じた」(1837年2月20日付、ダグー夫人宛の書簡)。この時代、演奏会のプログラムが人気オペラのファンタジーや技巧的作品で占められることは当たり前だった。その一方で、大衆の理解が及ばないシリアスな作品が取り上げられることはほとんどなく、とりわけ「難解」の代名詞ともなっていたベートーヴェンの後期作品が公開の場で演奏されることはごく稀だった。しかしリストは1836年6月、それまで演奏不可能と考えられていたベートーヴェンの《ハンマークラヴィーア・ソナタ》Op.106をパリの演奏会で取り上げた。その様子を批評家としてのベルリオーズは次のように伝えた――「一音たりとも省かれていなかった。一音たりとも加えられていなかった。・・・抑揚は何一つ削除されていなかった。テンポは決して変えられていなかった。リストは未だ理解されていない作品を理解できるようにすることにおいて、彼が未来のピアニストであることを証明してみせた」(『ガゼット』、1836年6月12日掲載)。リストにとってベートーヴェンは、実践面でも精神面においても特別な存在だった――「我々音楽家にとって、ベートーヴェンの作品は荒地からイスラエルの民を導く雲の柱や火柱のような存在です。昼は我々を先導する雲の柱、そして夜は我々に光を与える火柱、それによって我々は常に先へと進むことができるのです。その暗さと輝きが等しく、我々が辿るべき道しるべとなるのです。それら各々が永続的な戒律であり、不可謬な啓示なのです」(1852年12月2日付、ヴィルヘルム・フォン・レンツ宛の書簡)。ピアニストの青年時代から編曲家、指揮者、作曲家、校訂者そして教師として活躍した晩年に至るまで、リストはある特定の作品ではなく、ベートーヴェンのおよそすべての作品に取り組むことになる。1830年代後半、リストはダグー夫人とともにしばしばパリの喧騒を離れて、イタリアやスイスへ旅行に向かった。1835年に滞在したジュネーヴでは後の《巡礼の年 第1年 スイス》の初稿が仕上がった。1837年にジョルジュ・サンド(1804-76)のノアンの別荘に3ヶ月滞在した際には、リストのために用意されたエラールのグランドピアノを用いて、ベートーヴェンの交響曲第5-7番やシューベルト(1797-1828)の歌曲のピアノ2手用編曲を次々と完成させた。前者は「ベートーヴェンの名を芸術において神聖である」という有名な序文とともに1840-43年にかけて極めて豪華な装丁でヴィーン、パリ、ライプツィヒの各地で出版され、後者もまたヨーロッパの様々な地域の複数の出版社から販売される大人気商品となった。その後リストと夫人はイタリアに向かった。「器楽を声楽には匹敵しない二次的なものとみなす」同地の人々に失望の念を抱いたと綴ったリストだったが、この歴史的な地での滞在は決して無駄ではなかった。イタリア各地で触れた文化や芸術作品に深い感銘を受けたリストは、この時期、後の《巡礼の年 第2年 イタリア》をはじめとする重要な作品の初稿を次々と仕上げていたからである。またピサの聖堂で見たフレスコ画、「死の勝利」(1355年頃の作)に直接の着想を得て、《死の舞踏》の草稿を残した。

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