ビューロー, ハンス・フォン Bülow, Hans Guido Freiherr von 1830 - 1894 ドイツ このころ、彼はベルリンのシュテルン音楽院のピアノ教授のポストを打診された。このポストはテオドール・クラックが務めていたが、彼は同僚との不和から学校を離れることになったのである。1855年4月に就いたこの職は、ビューローに安定的な経済基盤を保証した。その一方で、イタリア・オペラ一色のベルリン音楽界に新しい器楽のレパートリーをもたらすべく、セザール・フランクやローベルト・フォルクマン、リスト、シューマンらの室内楽などを演奏し、同時代の作曲家のプロモーションに勤しんだ。1857年1月22日にリストの《ピアノ・ソナタ》を初演したのもこの時期の彼の重要な貢献である。そうこうするうちに、リストの二人の娘、コジマとブランディーネがベルリンを訪れ、ビューローのレッスンを受けるようになる。ビューローとコジマは互いに心を通わせるようになり、1857年、結婚に至る。師弟関係から親戚関係となったリストの息子、ダニエルが1859年、ビューロー夫妻と夏の休暇を過ごすために訪れた。しかし、11月にダニエルは同地で病死する。享年20。ビューローはダニエルが死の床にあっても、またその死後においても、淡々と仕事を続けた。ビューローの冷淡な振舞いはコジマの夫に対する感情を害し、二人の関係を悪化させる契機となった。それでも悲しみを埋め合わせるように、二人の間には1860年、ダニエラが誕生。長女の名は、亡きダニエルに因んでつけられた。ところが1862年にコジマの妹ブランディーネも世を去ってしまった。1863年に誕生したビューローの子は、ブランディーネと名付けられた。しかし、このころにはコジマは愛情を示さない夫に不信感を抱き、妊娠さえ伝えようとはしなかった。1863年、ヴァーグナーがコンサート・ツアーでベルリンを訪れ、コジマはヴァーグナーと心を通わせるようになった。愛情のもつれから彼女は一時自殺願望さえ抱く苦しい日々を送った。 こちらも読んでみませんか 出生直後に調律師に預けられた謎の作曲家 プリューダン 400曲の軽やかなピアノ小品でヨーロッパ上流家庭を魅了 ランゲ ライプツィヒでショパンのピアノ協奏曲を演奏した巨匠 ミハウォフスキ 両親を失った少年が海軍士官から作曲家へ転身 ルーセル 作品一覧 (2曲) Arrangement (2) ワーグナーの歌劇「タンホイザー」 より序曲 14分20秒 ワーグナーの歌劇「タンホイザー」より「夕星の歌」 6分50秒 演奏動画 (1)ワーグナーの歌劇「タンホイザー」より「夕星の歌」赤松 林太郎----/--/-- 現行サイトで見る →