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レイハ

レイハ

Reicha, Antoine

1770 - 1836   フランス

1794年、フランス軍の侵攻から逃れるため、その他の若い音楽家たちと同様、レイハもボンを離れてヨーロッパ各地を放浪する。ハンブルク、パリなどを巡る中、作曲家として劇場などの定職を得ることには失敗するものの、この転住期間で彼は後のキャリアに重要な経験を得る。一つは音楽家らとの出会いである。中でもヴァイオン奏者兼作曲家のピエール・ロードやピエール・バイヨ、国際的名声を博していた作曲家ルイジ・ケルビーニと親交を結んだことは、後にレイハがベートーヴェンやハイドンにこうした音楽家を紹介する契機となった。またハイドンとの再会は、レイハのヴィーン移住を決定づけるきっかけとなったのではないだろうか。二つ目は理論への傾倒である。この時期のレイハは作曲や作曲指導について理論的に思索を巡らすようになっており、後年《36のフーガTrente six fugue》として出版されることになるフーガの一部を作曲し始めている。ハンブルクで生活費のために行っていた作曲、理論および鍵盤楽器教師としての仕事がそうした体系的な考察姿勢を促したのだろう。 オペラ作曲家として地位を確立するという目的が達成できず、レイハはベートーヴェンとハイドンを訪ねてヴィーンに到着する(正確な年代は不明だが、1800年頃)。ここでレイハは友人でありかつての同僚であるベートーヴェンと同じく、サリエリに師事している(ハイドンとアルブレヒツベルガーに師事したという説もあるが、確証はない)。仕事の方はと言えば、ヴィーンでもオペラでの成功は収められず、その一方でプロイセンからのポストの申し出は断った。かくしてフリーランスの身で過ごしたレイハは、そのあいだ職務に捉われないメリットを活用して重要な器楽作品を書いている。ヴィーン移住前から続けていた理論的な《36のフーガ》はレイハ曰く「全く新しい方法」で書かれており、これがベートーヴェンの憤慨を招き、ベートーヴェン自身が自分の変奏曲作品34、作品35を「新しい道で書いた」と出版社に書き綴るに至ったのはよく知られた逸話である。その他、《変奏技法L’Art de Varier》や一連の弦楽五重奏曲、《死者のためのミサMissa pro defunctis》、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーのバラードに基づくカンタータ《レノーレLenore》などがこの時期の重要作に数えられる(事項参照)。 ヴィーンに入った後、作品の演奏や故郷の母を訪ねるため、レイハはまたもライプツィヒ、プラハなどを旅行する。この頃のヨーロッパの情勢はナポレオン戦争のために不安定で、周遊を終えたレイハがヴィーンに戻っても同地に落ち着くことは出来ず、1808年にヴィーンを後にし、再びパリへ移住する。

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楽譜

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